今回も「精神科医がものを書くとき」について、ふれてみたいとおもいます。


前回のブログで、中井先生が「オクノフィリア」である、とご自身のことを評されたことの理由に、

『非常に一般的、抽象的な言明をしようとする時には必ずそっと袖を引いて止めるようにさせる一種の感覚を自分の中に感じる。具体的なものを対象としないときには、確かに自分の中で引っ込み事案が生じる。』

そうです。


なんかすごく難しくて、どう捉えてよいかわからなくなってまして…ただ中井先生が「金星人」とひそかに呼ばれていた方は、オサムシの触覚にしか生えないカビを研究したり、魚類図鑑に印と感想を書いておられ…なんの感想かというと、食べた味を評価されていたようで、


『彼が、視覚だけでなく、味覚までを動員して、世界を直接肌で接しようとしていた』


のは間違いない、と書かれていました。


どこかしら、中井先生の文章を読んでいると、やはり実際に病気になられた患者さんの感じておられるであろう感覚や世界を、『特別でない』一般的な表現をされていると感じています。


『オクノフィリア(世界の多様性に喜びを見いだす)』であり

『フィロバティズム(世界をできるだけ単純な公式に還元しようとする)』


であるなぁと、個人的には思っていますおねがい

ただ正直、この項はおそらくエッセイ(随筆)ではあると思うのですが、とても理解するのに難しかったです。


文中にある「火星人」が評価されていたマラルメとヴァレリーという方の文学について評されていたことば、


『マラルメはどんな場面でももっとも美しい音を選び、ヴァレリーはその場面にふさわしい音、従って不快な場面では不快な音を使う』


今の私には、このことばをうまく説明することができません。

ただなんとなく、この項を読みながら、このことばの意味の深さが伝わってきます。


この言葉が自分の言葉として理解できるように、わかりやすく自分の言葉でみなさんに伝えられるようになりたいと思っています照れ


なので、中井先生の本にどっぷり浸かって、中井先生の世界を感じてみたいと思っております。