前回に引き続き、『一人の精神科医の"自然的"限界』について考えたいと思います。


前回は「有意味な面接の回数」について、中井先生の文章に触れながら考えさせて頂きました。

これについて、中井先生は


『一組の患者・治療者についてであって、治療者が変われば、新しい可能性が開けることは言っておかなければならないだろう。』


と書いておられます。

よく相談支援やケアマネさんで『私だから』『私でないと』といった雰囲気を出される方がいらっしゃいます。それはそれで合う利用者さんもいるので、なんとも言えないのですが、基本は『自分でなくとも歯車は回る』という気持ちで関わる方が良いとは思います。

ただ、何度も支援者を変える利用者さんも中にはおられます。中井先生の本のどこかに書いてましたが、先程の『新しい可能性が開ける』という点で見ると、何かトラブル、もしくは担当を変わらざるを得ない状況になることで、「私を通して毒が少し抜けた」ということで、次の支援者に担当してもらって良くなる…という感覚もありなのかな?と最近思うようにはなりました。

「最近」と書いているように、私も「私でないと」と思っていた一人でありますウインク


そして中井先生は、

『面接間隔をどう決めるかが、治療上大きなパラメーターである』

と書かれています。

間隔について、中井先生はこう書いておられます。


『面接と面接との間は、先行する面接が、お互いの心の中に沈み込んで定着する期間として貴重であり、また次回の面接に活用できるハプニングの生気する意味でも大切である。』


中井先生は週一回の面接がこれに合致すると書いておられます。月一回では「風化作用のほうが利いてくるし、面接と面接の間にハプニングがおこりすぎるので、話は後向きになりがちであり、前進は困難である」と書いておられます。


これについて、少し違う視点からということで、私の好きな河合隼雄先生の『こころの処方箋』から「自立は依存によって裏付けられている」の中にこのような文章があります。


『自立ということを依存と反対である、と単純に考え、依存をなくしていくことによって、自立を達成しようとするのは間違ったやり方である。自立は、十分な依存の裏打ちがあってこそ、そこから生まれ出てくるものである。』


河合隼雄先生の話では、子育てを例に挙げておられましたが、面接間隔でも同様のことがいえそうな気がします。医師に依存するということばが正しいかどうかはわかりませんが、外から見た自分に対して意見を言ってくださる人として、まずは耳を傾けてみる…という姿勢になってもらえる関係作りが以前のブログにも書いていた『治療者の仕事』なのかもしれませんね。

私も「まずは十分な依存関係を作ることが大事だ」と教えられてきたので、これは精神保健福祉士をとった頃からずっと大切にしてきました。


そして次も先程の本からの河合隼雄先生の引用です。


『自立といっても、それは依存のないことを意味しない。そもそも人間は誰かに依存せずに生きていくことなどできないのだ。自立ということは依存を排除することではなく、必要な依存を受け入れ、自分がどれほど依存しているかを自覚し、感謝していることではないだろうか。依存を排して、自立を急ぐ人は、自立ではなく孤立になってしまう。』


これは患者さんからの目線で書いているかもしれませんが、治療者自身も治療を急ぐことで、患者さんを孤立させてしまっているかもしれません。


これは患者と医師だけの関係でないかもしれません。今度あったらこう言おうと思っていた人に突然会えなくなった、なんてことも人生にはあるかと思います。

中井先生の言われるように、面接と面接の間にトラブルがあることも多いですが、それがバネになって成長できることも大いにあるかと思います。


実は私は今、そんな心境です。

悲しさと不安でいっぱいですが、またこれも乗り越えていくことなのだろうと思う一方で、乗り越えることの寂しさもあります。


「一人の人間に何ができるか」…