私の生きる道…其の一 | マメ…私の生きる道

私の生きる道…其の一

数え年59歳の私。


来年の2月18日で数え年で還暦を迎えます。


「10歳の1時間は60歳の10分、時のたつのは早いと感じる頃、人生がわかり始めた時になるそうです。


ならば、ようやく人として生きる頃なのでしょうか。」



という文章を目にしたときから、私としての生きる道は還暦からと心に決めてここまで歩いて来ました。



何かが変わる訳でもなく、ただただ自分を楽にして行こうと決めていたのです。


それを一言では語れないので、今までの道を振り返ってみようと思います。
そう、私が還暦からやりたいこととは、生きてきた道を文章に残すことです。

何度も災害、災難、別離、転落、裏切り、どん底をはって生きて、ありとあらゆる修行をしなくてはならなかった、私、という人間を書いてみたいと考えています。



それには、生まれた時から紐解くことが大切です。

どんな困難に出会おうと、何度落とされても、馬鹿にされても、涙を汗のように流しながら、何度も立ち上がって、歯を食い縛り、生きて来た、女の半生を、私も他者として、読んでみたくなったのです。
夫と出会って長い年月が経ち、娘一人、息子二人に恵まれ、実家の認知症の母を長く介護し現在は障害一級で入院中、夫の母は障害二級で在宅介護中。実母が入院するまでは二人の母を在宅介護。父子家庭となった長男の子供達、孫娘三姉妹育てのサポートしながら、笑いあり涙ありの日々を過ごしています。


私は父が一代で築き上げた建設業の長女として生まれました。
母は病弱で13回の手術で113針縫い後があり、私を授かった日から10カ月入院して出産し、帝王切開で生まれた時は既に呼吸が止まっており、助産婦さんが赤ん坊(私)の両足首を片手で持ち逆さまにした赤ん坊の尻を荒く叩き、暫くして産声をあげたそうで、考えてみると、その時赤ん坊は天に向かって羽を広げ飛んでいたところを、思いっきり叩き落とされ、生き返されたという。美談。

生まれた時の想像もつかない御産のせいか、私の顔は気の毒なほど潰れており、母曰く「美人じゃないけど福がある」と和尚様ただ一人誉めてくれたと。
御産のせいにするわけでもないが、きっと脳もどこか打ったらしいと、後に成績の悪い小学生時代言われ続けた。それに甘えて勉強もしなかったから、何とも言えないが。
私には、兄が一人いる。優しい兄で、ある時までは、普通の仲良い兄弟。
兄とは6つ違い、私達の小学校と中学校はグランドを一緒に使うように向かい合っていた。
ある放課後、グランドの方を見ると、兄と見ず知らずの女性が、泣きながら話している。
その夜、両親から兄と私に話があり、実は父は再婚で母を見初め結婚して、一年後、一歳何ヵ月の赤ん坊(兄)を抱いて来て、母に育ててくれるよう頼んだ。母は驚きで狂わんばかりだったと言う。
その時は祖母と叔母家族も同居であり、当時19歳母は泣く泣く了承するしか生きる道はなかったことだろう。
当時の継母は村のいじめの対象だった。兄が泣けば叱られ、病気になれば継母のせいにされた。
ある時、母は線路側に一人立ち、手を合わせ目を閉じた。その時、父が母を救った。
母は父に必死に頼んだという。「私には子供がいないから、この子(兄)への愛情がわからない。どうか私に一人だけ子供を産ませて下さい。決して我が子だけを可愛がったりしない。男の子なら養子にだすから。と。」

約束どおり、母は自分が知った我が子への愛情を兄に注ごうと奮闘努力するのだが。

人間界とは、真っ直ぐ努力したからといっても、間に他者が入ると、人の思いは思わぬところで落とされてしまう。

そんな中で私は知らず知らず家族の為に生まれたと思い込むようになるのです。
つづく