今朝、「えんがお」の代表である濱野将行さんのブログを初めて拝見しました。
少し長いですが、転載させていただきます。
ソーシャルインパクトが小さい活動では、社会は変えられないのか。「インパクトの小さい活動」にこだわった、8年間の答え。
子どもから高齢者まで、障がいの有無に関わらず、みんなごちゃまぜで過ごす景色は、やっぱりいつ見ても幸せになります。それは、それぞれが得意なことで誰かを支え、誰かに支えられる日常があり、その場にいる人が笑顔になるからだと思います。
そんな、「存在自体に価値がある空間」は、悲しいニュースばかりが目につく今の社会において、何かを変える大きなヒントになるはずだという確かな手応えを感じさせてくれます。
<ソーシャルインパクトについて考える>
でも、僕らの活動について「インパクトが小さい」という声もあります。受益者数が数十人程度では、社会は変わらない、という意見です。あまり表に出してきませんでしたが、結構言われます。
確かに、受益者数や規模で考えると、いわゆるソーシャルインパクトは決して大きくないし、このまま目の前の人を笑顔にする活動だけでは、効果は小さいのかもしれない、とも思います。
実際に、何か賞を取ったり、社会的に評価されやすいのは、規模感がある活動です。例えば、ある1人と深く関わり、年単位の時間をかけて、暗い闇の中から一緒に光が見えるところまで歩むような活動よりも、短期間に1000人にリーチした活動の方がインパクトは大きい、と評価されることが多いです。
目の前の人を笑顔にする活動は尊い。でも、社会を大きく変えるには、多くの人に届くような規模感が必要なのではないか——。
これは、ある意味事実だと思います。だからこそ、規模感を持って活動している人たちを尊敬しているし、かっこいいと思います。
しかし一方で、何度考えても、そして現場で様々な課題の中にいる人と出会うほど、規模感だけでは本当の意味で社会を良くすることはできないのではないか、とも思うのです。
そんな、自己矛盾のようなもやもやを数年考えていたのですが、最近、自分なりに答えが出ました。
<「連鎖」という、社会抱える最大の病>
社会がどんなに発展しても、子どもの自殺者数が増えてしまったり、幸福度が低くなってしまう背景には、「連鎖」があります。これは、現場で対面すると、めちゃ厄介です。
わかりやすいのは虐待でしょうか。お母さんが子どもを無視してしまう。叩いてしまう。周囲はお母さんを責める。でも、実はそのお母さんも、無視されたり、叩かれたりして過ごした。
コップの水に例えるなら、子どもが空のコップを持っていて、喉が渇いた、と泣いている。周囲はお母さんに「なんで水をあげないんだ」と責めるけど、実はお母さんのコップも空。誰がこの親子のコップに水を注ぐのか、という問題です。
誰かが愛情を注がなければ、「愛が足りない」ことによる連鎖は、ずっと続いていきます。虐待はわかりやすいですが、そこまで表面化していない連鎖が、実は至る所にあります。
僕がこの前歯医者で見かけた若いお母さんは、3人の子どもを連れていました。そして、常に怒っていて、子どもが何を言っても何をやっても否定していました。「黙って」「触らないで」「うるさい」。そう言いながら、子どものことは見ずに、スマホゲームをしています。子どもはそれでも、なんとかお母さんに見てもらおうと必死でした。
お母さんの態度は、正直褒められたものではないですが、でも、3人を産んで育てているって超すごいし、子どものために歯医者にも来る。きっとお母さんもどうしていいかわからない中で頑張っているし、おそらく、自分もそうやって育てられたのかな、と思います。
僕らの事業の中で、週に数回、学童保育や放課後等デイサービスで関わっている子どもがこうした連鎖にいたとして、僕らにできることは少ないです。家庭に介入するのは難しいし、保護者を否定してしまったら、もう来てくれません。
「お父さんだけの時間帯は、家に帰りたくない」と話す子どもを見送る時や、職員がたまたま頭の上に手を伸ばした時に咄嗟に身構えてしまった子どものエピソードを聞いた時には、いつも胸が締め付けられ、無力感と、やるせない気持ちと、どうしたらいいのかを必死で考える時間があります。
こうした負の連鎖は、いわばこれまでの社会が生んできた「ほつれ」です。どんなに物に溢れ、便利になっても、このほつれがなくならない限り、そこからこぼれてしまう人が必ずいます。
<インパクトが小さい活動にこだわった8年間で分かったこと>
長くなりました。結論です。
僕は、社会が本当の意味で良くなるには、規模感を持った活動ももちろん大切ですが、規模感を無視した、経済合理性のない、「目の前の人を笑顔にするためだけの活動」が、もっともっと沢山必要だと思います。
それは、ある一人の人が、自分を受け入れてくれる誰かと出会い、愛情を注いでくれて、負の連鎖から抜け出せた、という物語を作る活動です。
家に帰れば相変わらず色々あるけど、家以外の場所で、自分を認めてくれる人に出会うこと。時々叱ってくれて、ダメなことしても一定な距離で変わらずに関わってくれて、いつも同じような言葉をかけもらえること。自分をひいきしてくれる人がいて、こっそりご飯を奢ってもらえること。
居場所が見つかり、そのコミュニティに入り浸り、心のコップに水が溜まって、静かに自分の人生の物語が変わっていくこと。
そして、いつか自分が「水を注ぐ側」になり、次の世代に、もらった分の愛を渡して「あなたがいたので私は救われました」と言ってもらえること。
この変化こそが、一人の人を、暗闇の連鎖から救います。そしてその変化は、そこから時間をかけて、時間がかかればかかるほど、大きな変化になる動きです。
「目の前の人を笑顔にする」活動とは、言い換えれば、これまで僕たちが、便利さや経済成長と引き換えに生み出し、見て見ぬ振りをしてきた、社会の至る所にあるほつれた関係性を縫い直し、再構築していくことです。
これがないと、社会は本当の意味では変わらないのではないでしょうか。
短期的には、受益者数は一人で、インパクトは1かもしれません。でも、長期的には、ある1人が負の連鎖から抜け出したことによる影響は計り知れません。それを測る指標が、まだあまりないだけです。
<えんがおのこれから>
もちろん、規模を目指す活動を否定する意図は一切ありません。これは、まだあまり綺麗にまとまっていませんが、なんとなく今書きたいと思って書いた、僕の数年間悩んだ備忘録です。
でも、少し言えば、最近のソーシャルインパクトばかりが評価されがちな風潮は、少し違うかな、と思います。時間も資源も有限なので、規模も重要だけど、それにばかり注目して、そういう団体にばかり評価と資金が集まるようになりすぎると、大切なものを見落としてしまう気がするのです。
僕たちが得意なのは、目の前の人と一緒に歩んで、数年かけて笑顔にしていく活動です。なので、この活動をこれからも丁寧に継続していきます。とりあえずもう10年くらい、自分の人生を注いでみようかな、と思っています
「それはインパクトが小さい」と言われたら、「長期的に見ると、短期に1000人にリーチするのと同じかそれ以上の意味があるんです。」と、力強く答えようと思います。
規模感を持って動く活動と、目の前の人を笑顔にする活動。その両輪が、本当の意味で社会を豊かにするはずです。
たくさんの工夫と葛藤の中で、規模感を持って活動されている素敵な活動者さんたちと、そして、評価されにくくても、草の根で、一人と長く向き合い、一緒に暗闇を歩き、光が見えるところまで歩んでいる活動者さん全てに、心より敬意を込めて。