10月5日に、一年前に再会したメンバー(遠道さんとタケさん)と、もう一人のユウコさんと会ってランチをした。

 

一年前のブログ参照↓

「ノーマライゼーション」って、知っていますか?

今日は、今回再会したユウコさんのことについて書きたいのだが、その前に彼女の配偶者であった故ナオキさんのことを書いておこう。
ナオキさんは大学卒業を目前にして、事故による頚椎損傷で首から下が不自由な身となった。
就職先も決まり、希望と意欲に満ち溢れていた時のことであった。
彼が何年もの間の入院治療とリハビリの後に、家族の介護による生活を在宅で始め
その後、わずかに動く指先でパソコンを使い、障害者のB型かA型の作業所を仲間と立ち上げ働くようになったのは、
多分30歳くらいになっていたのではないか。
 
そんな彼に遠道さんが声をかけて、ふれあい広場の仲間入りをすることになった。
しかし、彼は話し合いの場でもほとんど発言をせず、黙って聞いていることが多かった。
ノーマライゼーションの啓発事業として、ハンディを持つ人達の声を可能な限り生かしたいと思っていた私は、黙っている彼に声をかけた。
「ナオキさんも、何か意見を言ってくださいよ」
ナオキさんは、少しの沈黙の後にボソボソと呟いた。
「でも、僕は自分では何もできないのだから…」
私はまだ彼が何をできるのか、何ができないというのかわからない状態だったが、その言葉には少なからず衝撃を受けた。
確かに、彼は誰かの介助を受けなくては移動もできない。
体育教師になろうとしていた人が、全介助に近い体になったことでどれほどのショックを受けたことだろう。
ひょっとすると、今もそのショックの心の傷とそれによる自信のなさが、彼の自由な言葉を封じているのかもしれない。
そんなことが脳裏を巡り何を言って良いのかわからなかったが、とにかく彼がこの活動に必要なのだと伝えなくては。
私は必死に彼に語りかけた。
「貴方のようなハンディを持つ人が意見を言ってくれなければ、私達は何もできないのですよ。
貴方がいてくれること、健康な人が気付かないことを教えてくれること、それが私達には必要なのです」。
その時は、多分「点検活動」のメンバーが数人輪になって話し合っていたと思うが、みんなシーンとして何も言わない。
(みんな何とか言ってよ!)と思いながらも、沈黙が苦手な私は同じようなことを言葉を変えて話したと思うが、その時も彼はかすかに頷くくらいの反応だったと思う。
当時、ハンディを持つ大人との付き合い方にはとても緊張していた私は、彼が私の言葉でイヤな思いをしていないかどうかが一番不安だった。
先天性の障碍を持つ人、事故や病気で不自由になった人、体のハンディだけではなく、知的・精神的障碍もある。
その一人一人に異なる経験と不自由さや辛さがあるだろう。
そんなことから心に傷を負っている場合もある。
見えない心の傷に意図せずに触れて傷つけることだってあるかもしれない。
それが原因で「もう、ふれあい広場には参加しない」と思われてしまうことが怖かった。
せっかく出会ったいわゆる障碍者と呼ばれる人がいなくては、ふれあい広場は絵に描いた餅になる。
 
次の会議の時に、ナオキさんが来てくれた時は本当にホッとして嬉しかった。
それからも寡黙ではあるけれど、必ず集まりには参加してくれて、町の点検活動にも一緒にいってくれた。
点検活動というのは、市内の公共施設やスーパー、公衆トイレなどを、
車いすや視覚障碍者などが利用できるか、段差があるか、エレベーターの有無などを点検して、
それを障碍者が利用しやすい場所などをわかるようにしたマップ作りである。
当時は、私は社協職員としてコーディネーター的な仕事をしていたので、
直接同行して点検活動はしていなかったので、その時のナオキさんの様子についてはよくはわからない。
しかし、パソコンを使えたから、きっと色々なデーターの整理などの役割を担っていたのではないだろうか。
 
そんな活動をする時は、いつも高校生のボランティアが協力してくれていた。
私はその様子を見聞きしているだけで、若い高校生たちにとってどれほどの学びの時間であるかを感じることができた。
とにかく、少しヤンキー気味な子も、あまり深く考えるタイプではない子も、それぞれにどんどん変化していくのが見えるのだ。
楽しく車椅子利用者と話をすることは、若い人たちにとっては興味深く面白いことであり、それまで知らなかった世界への窓だった。
彼らには、最初は偏見もあったのかもしれないが、大人には遠慮があってちょっと聞けないようなこともどんどん聞き、
自分たちが手助けできることを理解し、次の行動につなげていく。
障害やノーマライゼーションについての話をするより、「百聞は一見に如かず」とはこのことだと痛感することが多かった。
そんな高校生や福祉施設の職員、その他のボランティアの輪の中に、いつもナオキさんがいるようになっていった。
 
それから数年後、ナオキさんは北海道社協が実施していた「障害者海外派遣研修」に参加することになった。
ふれあい広場活動で実践した彼を、恵庭市社協が参加を推薦したのだ。
(もちろん、推薦書類は私が心を込めて作成した)
昨年紹介した遠道さんにも派遣が決まった時にお願いしたのだが、
「恵庭の障害者やふれあい広場活動の仲間たちに、海外での見聞や体験を伝えてほしい。それが条件ですよ」と。
本当は、必須条件ではなかったのだが、使命感を持って参加してほしかったのだ。
 
出発が近くなった時、ナオキさんの家に連絡があって電話をした時、彼のお母さんが出た。
私は「きっと海外に行くことについてはご心配でしょうね」と聞くと、お母さんはため息まじりに答えた。
「あの子は、死んでもいいから行くって言うんですよ」。
あの寡黙な彼が、あれこれと体のことを心配する母親に対してそのように言ったのだと思うと、胸が痛くなるような気がした。
視察研修には看護師や医師など医療介護のプロも同行するので大丈夫ですと話しながらも、
もしも万一のことがあったらお母さんには申し訳ないなと思ったはずだ。
 
そんな心配は杞憂となり、ナオキさんは充実した研修旅行を終えて帰ってきて、その報告会を見た時に私は感動した。
ナオキさんは、饒舌ではないがしっかりと体験談を語り、その顔は出発前よりずっと前向きで生き生きとしているように見えた。
元気で帰ってきたこと、そのことで彼の表情に以前以上の自信を感じることができたこと、
その体験を多くの人と共有しようとしていること、それをひしひしと感じた私は、視察研修の意義を再確認した。
 
少し長くなってしまったが、以上が私のナオキさんの思い出の一端であり、それからは様々なことで彼から学ぶことが一層増えた。
私が彼の報告会で感動したように、多くの人が様々な形で彼の報告会で強い感銘を受けたはずだ。
多分、そんな一人にユウコさんもいて、ユウコさんとの出会いはさらに彼の人生を変えてゆくことになる。