「ふれあい広場事業」で私が大切にしていた柱は二つあります。

一つは、今まで書いてきたように「様々なハンディを持つ人達が主体的に参加する」、

そしてもう一つ、「若い人たちに参加してもらう」でした。

今日は、若い人たちを巻き込んだふれあい広場にする過程と、

そこで私がどのような発見をしていったかということです。

 

今回再会したのは、遠道さん、ユウコさん、そしてタケちゃんと私の4人でしたので、

当時高校生だったタケちゃんのことを軸にして、若者とボランティアについて書いていこうと思います。

 

ふれあい広場を計画する時に上記の柱を立てるためまずは次のことにとりかかりました。

施設職員や福祉団体の若いリーダーたちを中心に準備委員会でたたき台の案を立てて

各方面に実行委員会への参加を呼び掛けました。

これが可能になったのは、「恵望園」と「光と風の里」の施設長さん、

各団体の会長さん達のご理解が得られたことがとても大きかったと思います。

特に、当時の「光と風の里」の施設長であった今は亡き国府田稔先生には、

本当にお世話になり施設ぐるみで応援していただきました。

これを書きながら、それがどれほど大きな力になったかを、改めて感謝するばかりです。

 

市内の恵庭北高校と恵庭南高校には、学校長あてに実行委員への参加をお願いしましたが、

それに応じてくれたのは恵庭北高校で、

「とりあえず様子をみる」という感じで、生徒会役員が準備委員会に参加してくれました。

彼らが来てくれたことがとても嬉しくて、みんなが「この高校生を逃してはならじ」と思いました。

逃さないためには、とにかく高校生の考えを尊重することです。

大人が考えた企画のお手伝いだけでは、若い人は面白くないに決まってますから。

その時は、車いすマラソンなどで障害者の人達には良く知られていたМさんと一緒に、

車いすを使った活動を考えてもらったと思います。

車椅子に触れるのも、車いすを使う障害者に出会うのも初めての高校生たちは興味津々。

色々と質問したり、できそうなことを考えたりしてくれました。

その様子を見ていた私は、「これはいける!」と思いました。

 

しかし、恵庭南高校からは何の返事もなくどうしようかと思っていた時に、

若い頃に障害幼児の療育の仕事をしていた時からの知り合いのSさんと偶然に会いました。

彼女の長男は軽度の脳性まひと知的障害があり、学齢期になってから施設に入っていました。

それで彼女に、

「障害者への理解を広めるための行事をするのだけど、それに若い人や高校生に参加してほしいと考えている。

北高校からは生徒会の子が参加してくれたけれど、南高校からは返事がなくて悩んでる」

と話すと、「うちの子、南高校に行っていて、生徒会の仕事してるんだよ。ちょっと息子に話してみるね」とのこと。

 

数日後、彼女と息子さんのT君が事務所に来てくれました。

ふれあい広場のことを説明して、何とか南高校の生徒にも参加してほしいと話すと、

「わかりました。自分の友達を連れてくるのでもいいですか」との返事。

こちらとしては、とにかく参加してくれたらそれでいいわけなので、一も二もなくお願いしました。

このT君が、最初は男子生徒二人くらいを誘って来てくれたと思いますが、

そのことが今回会ったタケちゃんとの出会いのきっかけになるのです。

施設の職員や北高校の生徒たち、障害を持つ人達と話し合いをする中で、

T君たちはのめりこむように参加してくれるようになりました。

(北高校の生徒たちと一緒に話し合うことで、お互いにライバル意識も芽生えたかも…)

若い人たちの好奇心ややる気に火が付いた時のパワーは私の想像以上で、

中心になっていた施設職員のFさん達にも、さらなる情熱がかきたてられたようで、

私はそれについていくのに大変でした。

 

私の仕事は、彼らがやりたいことができるようにすること。

具体的な企画案にして事務局長や会長の了解を得、その上で実現できるように関係者と連絡調整したり、

予算計画をたてたり、お願いの文書を出したりするなど、事務的作業が主でした。

仕事をしている人や学生が中心になって進めるのですから、どうしても打ち合わせや会議は夜になります。

第一回目の「ふれあいひろば市民の集い」が終わってからは、さらに多忙となりました。

最初の「ふれあい広場市民の集い」に、私の予想を超えた様々な団体や市民、高校生が関わってくれたことで、

実行委員会のやる気は燃え上がり、反省を含めて次の活動のアイディアも沸いてくる。

社協職員の私は、「これで、単年度の補助事業ではなく、社協での事業として続けることができる」と確信し、

正直なところそれが一番嬉しかったかもしれません。

社会福祉協議会の理事会でも「これはとても良い事業だから続けよう」ということになり、

私は安堵しながら次年度の計画や予算づくりができました。

ただ、それはかなりの事務作業や調整を伴うことで、当時は職員も少なかったので毎日が目が回るような日々となりました。

ですから、それからの経緯については正直なところ記憶が錯綜していて、

実は最初に南高校の生徒が参加してくれた経緯も、今回タケちゃんとのやりとりで思い出したのです。

(タケちゃん、ホントにありがとう。そして、功労者だったT君、あの時は本当にありがとう)

 

長くなってしまいそうなので、続きはまた後日にします。