子ども家庭庁の統計では、
●小・中学校における不登校児童生徒数は353,970人(前年度346,482人)と過去最多となり、12年連 続で増加したものの、
増加率は小学校5.6%(前年度24.0%)、中学校0.1%(前年度11.4%)、小・中学 校全体2.2%(前年度15.9%)であり、前年度から低下した。
●児童生徒1,000人当たりの不登校児童生徒数は38.6人(前年度37.2人)であった。
増加の程度は少し低くなったようだが、相変わらず増え続けている学校を拒否する子ども達。
この問題については長年各分野で議論され続け、文科省もあの手この手で対策を続けてきた。
しかし、それが功を奏しているとはとても感じられない。。
31年前に(阪神淡路大震災の年だったから正確にわかる)、妹や友人の当時小学三年生だった子が、
相次いで学校に行けなくなっていることを知った。
それ以来現在まで、ずっと登校拒否・不登校について関心を持ち、あれこれと考え続けてきた。
学校だって教育行政だって、学校に来なくなった子どもに無関心だったわけではなく、
適応指導教室やスクールカウンセラーを増やしたり、大都市中心ではあるがフリースクールも増えてきた。
同時に、私学を中心にしてではあるが不登校の子ども達が通いやすいカリキュラムでの学校も増えている。
いまでは、公立の小中学校にもそのような学校ができはじめている。
30年前は聞いたこともなかったホームエデュケーションを選択する家庭も、少しずつ増えているのではないか。
つまり学びの多様化が広がっていて、地元の公立小中学校に行くことを子どもが拒否しても、
保護者が過剰に責任を感じたり、子どもの将来を悲観することはない状況に進んでいると思われる。
だか、しかしだ。
相変わらずわが子が学校に行かなくなると、親はとても心配し、焦り、病院や相談機関に走り、
時には小学校低学年の頃から発達障害の診断を受けたりもする。
相変わらず登校できることが問題解決への道と信じて、子どもを追いつめてしまうこともある。
その構図は、30年前とあまり変わっていないような気がする。
今は、直接保護者と話す機会がなくなっているので、現在のお母さん達の様子はわからないのだが、
何とか一般的な教育機会のコースに戻ってほしいと内心では願ってしまうだろうし、
(それは子ども自身もそうだうと思う)
その気持ちに応えるように(?)、塾(オンライン塾も含む)や、
「不登校克服」とか「短期間で学校復帰」なんていうところもあるようだ。
あるいは、高卒認定試験を経て大学進学することを目標にすることもありそう。
それが悪いとは言わないし、子どもによって状況は様々なので、その中で良い大人や友達に出会い、
自分のやりたいことや目標を見つけて、自分の人生を歩く子も多いことだろうと思う。
ただ、今までの不登校の状況を俯瞰して見た時、目標は何なのかを忘れてしまってはいけないと思うのだ。
原点を忘れないようにしてほしい。
親は、子どもが元気に笑顔で日々を過ごしながら育ち、社会の中で生きる大人になってほしいのだ。
そのために、学校は子どもが健全に育つための機関だ。
学校の登場と歴史は脇に置いておいて、
子どもが元気に様々なことを経験し、学び、大人になることが目標だったはずだし、今だってそうであるはずだ。
高校や大学を卒業することが目的になったら、どこか違うのは明らかなのだと思う。
私も、世話人現役で例会に参加していた頃は、
「学校に行けるようになった」「高校に合格した」などの話に一喜一憂し、
それで未来が明るくなったような気がしていたのは本当だ。
しかし、子どもの未来と人生はそれからもまだまだ続く。
一時の不登校など忘れたかのように、元気に今を生きている人たちも沢山いるけれど、
学校時代のいじめや不登校の時代がトラウマになって、大人になっても自分に自信が持てず、
どうしてもマイナス的な考えになりがちな人もいる。
学校に行かなくても、毎日を様々な形で経験し学ぶことができたなら、不登校を劣等感にしなくてもいいはずだ。
子ども達は好奇心の塊だし、面白いことなら夢中になって遊ぶ。
できれば、誰かと一緒に夢中になって遊ぶ時間を大切にしてほしい。
子どもらしい好奇心に満ちた日々を大切にするためになにができるか。
大人が一番考えなくてはならないのは、そこではないかと思う。
これを書いている時に、次のFacebookを見つけた。
なかなか示唆に富むことをお書きになっている。
一部をコピペさせていただく。
(前略)
思えば、制度だけで国を変えようとするのって、道徳教育だけで人を正そうとするのに似てる。
人に親切にするべき。 こうするのが正しい。
そう教えるのは大切だけど、それ以前に「人に親切にしたい」という情動が育ってないと、正義は暴走する。
子供は色々な人と関わって、「人を大切に思う」情動が育つ。
その情動を育てないで正義の剣だけを与えると、その剣で人をメッタ斬りにしたりする。
ネットで人を再起不能になるまで叩いたり、公衆衛生の名の元に肉体の決定権を奪ったりが例だ。
共同体が崩壊した中で育ち、ご近所さんとのふれあいもなく、友達も友情じゃなく機能的な付き合い。
それで、
「みんな幸せになってほしい」
なんて情動は育つものだろうか?
汚職や悪い政治家と言われる人も、その人の中では正義を行ってるだけなんだろう。
ただ、その人の世界には、身内やエリート層しかいないのだと思う。
法をゲームのルールのように操り、合法的にやるのが賢いと思ってる。
子供の頃、数字や概念ばかり教えられて、地域や友人との繋がりがないから、
人も地域も、産業も仕事も、数字か装置にしか見えない。
商店街が潰れても、山が削られても、お祭りが失くなっても、「そんなもの最初から自分と繋がってない」何も痛まない。
川が埋め立てられるのを見ると「痛い」。
人が苦しんでるのを見ると「辛い」。
今の問題の多くは、そういう感覚がない人が多数派になってるからじゃないか。
なので
近所の子達を連れてお祭りや川に遊びに行くのって、政治(構造の改革)と同じくらい大事なんやないかな。
抽象的な正義だけでは、人への責任感も、故郷への忠誠心も育たない。
夏祭り準備、友達と喧嘩しても一緒に乗り越えた経験。
故郷の山や川と、身体が繋がってる感覚。
そんな身体感覚を育てたい。
そして遊びの中で、自然発生するリーダーシップを大事にしたい。
自然にリーダーが生まれるのは役割分担で、上下関係とは違う。
潰さず、大切に育てたい。
皆さんもこの夏、近所の子達を海に、川に、山で、お祭りに連れて行ってあげて
おっちゃん、おばちゃんの秘伝の知恵を子どもたちに継承してきてください。
そんな地道なことが、ほんとに国を守ることや思う。