大英帝国の19世紀 ⑧ アロー戦争 北京条約 | BEYOND BORDERS

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怒り狂った英仏(それはそうです、正式な使節団を騙して誘導・監禁し、残虐な拷問を加えた後、遺体を放置しておいたのです。夏場なので遺体は腐乱し、ウジがわいています。)は、皇帝の離宮である「円明園」のものを強奪した後、焼き尽くしました。

 

 

この中には太平天国鎮圧に協力したあの常勝軍のゴードンもいました。

ゴードンは第2次アヘン戦争(1856~60)のためイギリスから派遣され、1860~62年まで北京にいました。

その後、太平天国からの防衛のため、上海へ派遣されます。
(その後、彼はエジプト・スーダン・ベルギー・コンゴ・インドなど、実に様々な地域に赴くことになります。)

 

 

「円明園」とは西洋の技術の結集である、西洋庭園です。中国風庭園の片隅にありました。

13年の工期を費やし、1760年にできたものでした。

 

世界文化遺産になっています。すべて残っていたらどんなに素晴らしいものだったか・・・。

 

清に布教で訪れていた宣教師のカスティリオーネ(中国名・老世寧(老西寧))が、古代ギリシアの彫刻や、ベルサイユ宮殿をもとに、建物を設計しました。

 

清が最大領土となった時の皇帝・乾隆帝は文化・芸術を愛し、中華のものだけでなく西洋のものも多く取り入れました。

噴水と時計を掛け合わせ、12支の像の作り、定刻になるとその口から水が流れ出しました。

 

主にフランスが強奪をし、イギリスが「捕虜殺害の報復」として焼き放ち、互いに批難し合いました(;^_^A

 

 

この行為を非常に野蛮と憂いた知識人はヨーロッパにも多くいました。

 

「アヘン戦争」でのキーポイント・試験によく出るところは

・三角貿易であったこと

・清は開港させられ(第1次で5港、第2次で10港)、不平等条約を結ばされたこと

・香港を割譲させられたこと

・「円明園」の消失

 

この4番目、意外に大事なポイントです。

西洋人が西洋文化の極致を自らが破壊したからでしょう。

 

 

 

1860年、清はイギリス・フランスと北京条約を結びました。

 

・天津(←北京に近い港です)の開港

・イギリスへ香港・九龍半島の割譲

・中国人の渡航許可

 

この3番目、何が問題かおわかりになりますか?

一見、中国人が自由に海外に出かけられるよいことのように見えます。

これは新たな商売、中国人の労働力売買貿易「苦力」の輸出です。

 

奴隷貿易が禁止されると、ヨーロッパやアメリカでは労働者が不足しました。

劣悪な労働環境に中国人の輸出をはじめるのです。

航海中に死亡することもあり、現地でも危険な作業は白人に代わりに中国人にさせました。

大陸横断鉄道の建設がその例です。

爆破作業は中国人苦力にさせ、白人は監督していました。

 

苦労した中国人労働者はやがて各地で「チャイナタウン」を建設し、結束してことになります。

 

 

 

1860年と言えば、日本では「桜田門外の変」が起きた年です。

京では放火・暗殺で荒れに荒れていた頃です。

日本が長い間憧憬してきた大国・中国でこのようなことが起きていることを知るや、開国かどうかで悩むのももっともでした。