さらなる市場の拡大を川を上って「内陸」に求めていたイギリスに口実ができました。
というより無理やり作りました。
広州沖に停泊中のアロー号に清の役人が乗り込み、中国人船員12人のうちの3人を海賊容疑で逮捕をしました。
これをイギリスは
「国旗が辱められた」
と、広州を攻撃し始めました。
実際にはー
アヘン戦争後、不平等条約で中国人がイギリス船籍に勝手に入れないことを商売にしていました。
「イギリス船籍」という一筆を中国人に売り、中国人がアヘン密輸や人身売買にそれを利用していたのです。
その通報を受けた広州の役人が、アロー号に乗り込んだのです。
船籍期限切れの「イギリス船籍」の紙が落ち、国旗も掲げられてはいませんでした。(イギリス側は本当に期限切れに氣づかなかったよう)
また、フランスは宣教師一人が殺害されたことを事由に清朝に抗議し、イギリスと一緒に戦争を始めました。
そのフランス人宣教師はそれまでにも布教禁止と逮捕されたことがありました。
が、また繰り返したので惨殺されたのでした。
ここにアロー号事件、アロー戦争、第2次アヘン戦争(1856~60年)が起こります。
アメリカとロシアは参戦しませんでしたが、既に得ていた南京条約の改正には参加を表明しました。
1858年、清は両国に負け、「天津条約」を結ぶことになります。
・賠償金の支払い
・10港の開港
・キリスト教の布教の許可
・外交官の北京駐在
・外国人の中国国内旅行・貿易の自由、治外法権
・外国艦船の揚子江航行の自由
ところが1859年、英仏の批准書を持った使節団が北京へ向かうところを清側のセルゲリンチン将軍(モンゴル人、チンギス=ハンの子孫)に阻害され上海へ後退します。
その翌年1860年、英仏軍が再度進軍したところ、清は英仏使節団をだまし、監禁し拷問を始めました。
11名の死者も出ました。
これに怒り狂った英仏は、さらなる勢いで中国で強奪・婦女暴行・虐殺を始め、北京へ向かうのです。