以前、死の恐怖について
考えたことがありました。

私自身はあまり死そのものへの
恐怖は無いのですが、
肉体的な苦痛への恐怖は
大いにあるな、と思います。

死が恐いという人は、
実際のところ、死の何が恐いのか
と以前Facebookでアンケートを
取ってみたことがあるのですが、


恐れているのは、肉体の苦痛や
家族を残して逝くことや
やりたいことを道半ばにしなければ
いけないことへの無念といった
理由が多かったように記憶しています。

死んだらすべてが無くなる
と考えている人で死が恐いというのが
よくわからなかったのですが、

そもそも、すべてが無くなるのなら、
恐がるその主体そのものが無くなる
のだから、一体何が恐いのだろう?
と思ってしまうんですよね。

まぁそれはさておき、
無残な人の死を間近に見た人が、
その後、人生観、人間観、死生観が
がらりと変わって、

命のみずみずしさを感じるよりも、
朽ちていく無情なるものの方に
意識がフォーカスされてしまい、
生きた命への情感が
抱けなくなってしまうことがあります。

命あるものを、人形かロボットのように
捉えなければ、とても正気を保って
いられないのかもしれません。

目の前で朽ちていく物体が
自分であったり肉親であったり
命あるものの本体だと認識
してしまうと、そうならざるを得ない
ところはあるように思います。

セッションであれば、
あまりにもショック過ぎて、
混乱しているその感情のエネルギーを
受け止め、統合していくことで
少しずつ情感を取り戻していくことは
できますが、

生前、温かく微笑み、人格を持って
動いていた存在と、
すべての生命活動が停止し、
冷たく朽ちていく物体との違いは、
どこにあるのか。

さっきまでそれにあったのに、
今はもうないもの。

意識を繊細にしてみれば、
去って行ったものは、どこかべつのところに
形を変えて在り続けているのを
感じるかもしれないけれど、

その変化を受け止めるのも、
なかなかに大変なプロセスである
ことが多いですね。

死への恐怖は、自分の現実から、
大切な存在が去って行く、
居なくなってしまったという喪失感も
また大きな比重を占めている
だろうと思います。

こちら側の世界で生きている者にとっては
死は確かに生命の絶対的な停止の感覚があり、
それは無条件に本能的な恐怖を
掻き立てるものかもしれません。

ただ、生と死は表裏一体であり、
どちらも忌み嫌うことなく受け止め、
双方を受け取らなければ、何か
大切な本質を見失うように思います。

死は、もう二度と過去の約束を
この肉体で果たすこともできず、
未来への希望もない状態で
すべてが強制終了していくこと
でもありますが、

残された側にせよ、残して逝く側にせよ、
大きな状態の変化には、混乱や恐怖が
付きまとうものです。

死は、日常とは違う特殊な変化のように
思えるかもしれないけれど、
自分の意識に現れるあらゆる感情や感覚を
受け止めて行くという基本は同じです。

抑圧したり固めたるすることなく
自分の中を上手に通過させることができれば、
冷静にその状況を見ることが
できるでしょう。

そうしたら、すべての停滞
と見えたその景色にも、
別の命の躍動があることに
気づくかもしれません。

結局、死というのは
それまで見ていた生命の姿とは
別の状態に命が移行した直後に
私たちの意識が
かつて生きていた存在の残像を
映しているにすぎず、

実際には、既にそこで
私たちがまだ認識していない、
別の命の活動が始まった状態
なのかもしれません。

その、別の命の活動が認識できずに、
かつて生きていた存在の
残像を追ってしまうと、
私たちはとても混乱し、
死を恐れるようになるのでは
ないでしょうか。

生々流転なる命の本質とは何か。

誰しもに必ず来るその日のために、
自身の意識に、確かにそれを
捉えておきたいものです。







 

 

 

 

 

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