ネットに次の記事が載っていた。紹介する。
“【柳美里】
中島みゆきさんとの交流は1995年に「月刊カドカワ」で中島みゆき特集を組む時に寄稿を依頼されたことがきっかけでした。その後、1997年に芥川賞を受賞した時、2次会に中島さんをお呼びしたのですが、お祝いのスピーチをしてくれました。
その頃、私は在日韓国人としてさまざまな困難に直面していました。右翼団体から脅迫を受けたり、サイン会が中止に追い込まれたりし、精神的なダメージから血を吐き、緊急入院しました。その時、病院から中島さんに電話をかけたんです。そしたら中島さんは病室までお見舞いに来てくださって。ゆっくり話をした思い出があります。
2000年4月に息子を出産するのですが、その年の1月にパートナーで東京キッドブラザースを主宰していた東由多加をがんで亡くしました。出産を控え、病院に泊まり東を看病するギリギリの日々が続き、心身ともに厳しかったとき、何度か中島さんと電話をしました。どんな話をしたかも覚えていないのですが、いつも「うん、うん」と聞いてくださって。
「中島みゆきのオールナイトニッポン」が始まった時、私は10歳。毎週欠かさず聴いていました。10代の頃は学校でいじめを受け高校を退学。親は離婚し、学校も家も居場所はなく、孤絶感でいっぱい。そんな時に繰り返し聴いたのが中島さんの楽曲でした。「夏土産」や「ファイト!」を聴きながら、終電後の線路の上を毎夜歩いていました。
中島さんの書く歌詞からは、移住者が多い北海道ならではの歴史や背景を感じます。流れ着いた土地で縁を結ばざるを得ない。そんな人々の覚悟と強さ、そして寄る辺なさが同居しています。
中島さんの歌は、私の最も暗く苦しかった時期を照らしてくれました。暗闇を照らすのは必ずしも光ではない。光が届く範囲は限定的だけど、同じ暗闇ならどこまでも届く。私にとって「中島みゆき」は、暗闇を暗闇で照らしてくれた人です。”
「暗闇を暗闇で照らしてくれた人 中島みゆき」、私も中島みゆきの歌を聴くたびに
同じような思いをした。