鎌倉散歩・大宝寺・上行寺・鎌倉市 | 西村治彦の日記

西村治彦の日記

日々の出来事を書いています。

 この日は、神奈川県鎌倉市に出掛けました。同行はまっちゃんです。まず、鎌倉市にある「大宝寺(たいほうじ)」に向かいました。「大宝寺(たいほうじ)」は、鎌倉市大町にある日蓮宗の寺院です。開山は一乗院日出上人です。創建は(文安元年(1444年)です。本尊は三宝祖師です。境内には、佐竹氏の守護神社の「多福明神社(大多福稲荷大明神)」があります。境内地は「佐竹屋敷跡」と呼ばれています。佐竹氏の遠祖にあたる「源義光(新羅三郎義光)」は永保3年(1083年)の「後三年の役戦勝」は、日頃から信仰していた多福大明神の加護によるものとし、この地に多福神社を建てたと伝承されています。

 「後三年の役」とは、東北の「安倍氏」が「前九年の役の報償」で、与えられた土地を、好き勝手に利用し、悪用してきたので、「源義光(新羅三郎義光)」が、「やはり東北の豪族・清原氏」と同盟して、「安倍氏」と戦った戦です。「源義光(新羅三郎義光)」が勝ちました。

 その後、この地は「源頼朝」により、「佐竹秀義」に与えられて屋敷を構え、代々「佐竹氏の居館」となりました。佐竹隆義・秀義は、源義光を祖に持ち、常陸国北部に基盤を持っていました。最初、「源頼朝」の下に参陣せず、「佐竹秀義」は富士川の戦い直後に征伐され、奥州に落ちのびました。文治5年(1189年)に「源頼朝」に帰順し、奥州合戦で武功を上げたため御家人となりました。 応永6年(1399年)に「佐竹義盛」が若くして出家し「多福寺」を建立しました。一旦、廃寺(大町の八雲神社に合祀)となった後、文安元年(1444年)に一乗院日出上人(本覚寺の開山でもある)によって再興されました。その際、旧寺号を山号とし、「多福山大宝寺」と改名されました。明応8年(1499年)に松葉ヶ谷「妙法寺の日証上人」により八雲神社から多福神を再び境内に勧請しました。

 「大宝寺(たいほうじ)」には凄い歴史がありました。私と同行のまっちゃんは、「大宝寺」に参拝して、境内にある「多福明神社」でも参拝しました。歴史は凄いです。

 次に、同じく近くにある「上行寺(じょうぎょうじ)」に向かいました。「上行寺」は、神奈川県鎌倉市大町に所在する「日蓮宗寺院」で、山号は法久山、院号を大前院と言います。創建は正和2年(1313年)で、開山は日範上人です。本尊は三宝祖師です。「癌封じの寺」として知られています。昔は、「癌」に罹ったら、「神頼み」です。「癌」かどうかも分かりません。

正和2年(1313年)、日範上人の創建です。「上行寺」の本堂は、1886年(明治19年)に名越の妙法寺の法華堂を移築したものといわれており、堂内には「日蓮上人像」や「開山の日範上人像」、「水天像」などが安置されているほか、格天井には花鳥の絵、欄間には十二支の彫刻が施されています。境内には万病、特に癌に効があるといわれている「瘡守稲荷堂」や、大小の鬼子母神をまつる「浄行堂」があります。また、山門には「左甚五郎作といわれる龍の彫物」が、本堂の表欄間や梁などには熊本藩の大名細川氏による龍の彫物があります。ここ「上行寺」に「左甚五郎作」の彫刻があったとは、知りませんでした。

 万延元年(1860年)、桜田門外の変で大老の井伊直弼を襲撃した水戸浪士の一人である「広木松之介」は、鎌倉へ逃れた際に「上行寺」にかくまわれたと言いますが、同志が刑死した事を知り、後文久3年(1863年)の3月3日に切腹したと言います。境内墓地には「松之助の墓」があり、1916年(大正5年)には石碑が建造されました。

 「上行寺」は、質素な寺で、殆ど誰も訪れないような「目立たぬ寺」でした。私とまっちゃんは、「上行寺」で、鎌倉を学びました。殆どの人は、有名な大きな寺を訪れますが、私たちは、場末の目立たない「鎌倉の寺院」を訪れています。鎌倉の醍醐味だと思います。

 

ランキング参加中です。

読み終わったら最後にワンクリック!
↓ご協力おねがいします。

にほんブログ村 士業ブログ 社会保険労務士(社労士)へ
にほんブログ村

 

西村社会保険労務士事務所ホームページ

↑役立つ社会保険情報 掲載中

求人情報ものっています!!

 

 所長 西村治彦の本
【新版】日本で一番大きい社労士事務所の秘密 定価 1200円(消費税込み・送料込み)

 電話かメールでご注文可能です。こちらへどうぞ。

 電話 043(248)1222(代表) メルアド support@nsr-office.com (社労士法人)西村社会保険労務士事務所