市原市千原台の古墳広場・古墳上で踊ります・6世紀の前方後円墳と円墳がたくさんあります。 | 西村治彦の日記

西村治彦の日記

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この日は千葉県市原市にある「古墳広場」に出掛けました。この「古墳広場」は「草刈古墳」とも呼ばれています。同行は お馴染みバレーの緑子さんです。

 この辺りは、古墳時代の古墳がたくさんあります。ここ「古墳広場」周辺には 以前は250もの大小の古墳があったのだそうです。宅地開発で 殆どが破壊され、現在は ここ「古墳広場」に 12の古墳が残っているだけです。

 周辺の市原市の「養老川沿い」には、更に多くの「古墳」があります。「古墳文化」ですね。大きい古墳では「姉ヶ崎」にある「二子塚古墳」、長さが114mあります。また その近くには、「姉崎天神山古墳」があり、全長は130mあります。その他、数え切れないほどの「大小の古墳」があります。それぞれが「古墳群」となって存在します。

 なぜ この地帯一帯が、古墳が多いのでしょうか。

市原市は、古代の首都でした。黒潮に乗って流れ着いた「古墳文化」を持った人々が、現市原市一帯に住み着きました。黒潮の先は ちょうどこの一帯でした。昔は、東京湾が深く入り込んでいて、舟が漂着しやすかったのです。周辺には 貝塚や住居跡がたくさんあります。豊かな文化をもっていたので、首長は、「大きな墓」を作りました。それが「古墳」です。

 「古墳文化」を持った人々は、「古墳時代」の人々です。「古墳時代」は「飛鳥時代」とも呼ばれています。やがて、奈良時代に入ります。「奈良時代」は朝廷政治です。奈良の都から、派遣された「国司」による、天皇を中心とした政治に変わります。「国司」のいた場所は「国府」または「府中」です。「国府」には 役所があり、国司を助ける「地元の豪族」がおりました。「地元の豪族」は、この周辺の古墳の主の末裔と考えられます。勢力のあった「豪族とその配下の人々」、それらの人々の先祖が この周辺の古墳主であります。

 勢力のある「豪族たち」は、古墳群の真ん中に、「国府」を置きました。その「国府」のほぼ跡地に 現在の「市原市役所」があります。古墳時代と奈良時代、平安時代と基本的配置は変わりません。「国府」を挟んで、上下には「上総国分寺」と「上総国分尼寺」があります。国司は奈良から赴任すると「国分寺」に詣で、赴任の挨拶をしました。

「古墳」がたくさんあると言うことは、当時の勢力の集まった地である、と言うことが言えましょう。その「豪族」は、平安時代に入って「千葉氏」となり現千葉市一帯を治めることになります。「千葉氏」は「源頼朝」に協力し、強力な戦国武将となっていきます。

 緑子さんには、「草刈古墳」で 得意のバレーを踊って戴きました。古墳バレーが似合います。

 

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