栃木城は皆川広照が築き、徳川家康により、取り壊されました。 | 西村治彦の日記

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「栃木城」は栃木県栃木市にある城であります。城は、天正19年(1591)皆川広照が築き18年後の慶長14年(1609)広照が徳川家康の怒りに触れ、取り壊されました。現在あるのは、東丸の北西部の土塁と堀の一部が残り、堀ぎわには昔の名残を留める武家屋敷の白壁の塀がおよそ30軒残っています。

「皆川氏」の居城を山城である「皆川城」から平城に移す計画自体は天正年間の初めから始まっていて、寺社を皆川からこの付近に移転させていたことからもそれが見られます。しかし、35千石の小大名である皆川氏にとっては、新しい城を造ることが簡単ではなかったのです。そんな中、天正18年(1590年)に皆川城が豊臣秀吉の軍勢によって落とされました。居城を失ったことにより、翌天正19年(1591年)、皆川広照によりこの城が築かれるに至りました。

城は1年ほどで完成し、広照は城下町の構築を始めました。当時の栃木は荒れ地でありましたが、広照の政策によって繁栄を見せ、江戸時代にに日光例幣使街道の宿場・栃木宿として巴波川の舟運で栄えることとなりました。

慶長14年(1609年)、将軍徳川家康による広照の改易と、城取り壊し政策により廃城となりました。築城からわずか19年間という短い歴史でありました。その後、栃木町は支配者の変遷を繰り返したのち、足利藩領になり、その陣屋は宝永元年(1704年)栃木城内に設けられました。それから寛永元年(1789年)に、現在の地に移されました。

城跡の一部は1972年(昭和47年)828日に市指定史跡となり、翌年からの整備事業で児童公園の栃木城址公園に生まれ変わっています。城の名残としては、L字型の堀と小高い築山が残っています。

 ●天下を統一した「徳川家康」は、統一の為に邪魔なものは、ことごとく破壊しました。それゆえ、江戸時代はその後 末長く続くことになります。武力で統一すれば、邪魔物は 武力を持ってまでも排除されます。家康の口一つで、多くの地方大名が消えていきました。「栃木城」もその一つでした。

 皆川広照によりこの城が築かれましたが、「皆川城」は 山城でした。私も以前、「皆川城」に登りましたが、高くて ほぼ登山でした。疲れました。「山城」は 頑丈なようで、山頂にいると逃げ場がありません。木に登った熊のようであります。下から 大勢の軍勢に囲まれ、登って来られると、山頂の見方は逃げ場がありません。ことごとく敗北します。

普段 山城に勤めるのは、毎日 登山です。食料や水の運搬で、疲れてしまいます。体力も落ちますね。戦いの時は、使れて力が出ません。最後は 負けますね。

 そんな山城の「皆川城」と、その後の「栃木城」を訪れて、地方の城主は、生き残るのが大変であったと、思うのでした。天下は 一人が取り、一人が 決めていきます。

 

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