茨城県つくばみらい市にある「足高城跡」に行きました。足高城は牛久城主・岡見氏の一族である岡見中務 | 西村治彦の日記

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この日は、茨城県つくばみらい市にある「足高(あだか)城跡」に行きました。足高城は牛久城主・岡見氏の一族である岡見中務少輔宗治の居城として知られています。

 岡見家 は、戦国時代に牛久城を本拠地として常陸国河内郡を支配、天正18年(1590年)の後北条氏と共に滅亡しました。

下妻城主・多賀谷重経によってたびたび攻撃されるも、これを撃退しましたが、1588年(天正16年)に宗治の祖父である岡見入道が攻略され、城内が混乱した隙を突かれて落城しました。現在城址には本丸跡と見られる城中公民館に土塁が、出曲輪とされる城中八幡神社に土橋と堀切が残っています。

 「足高城跡」に入る時、入口には「古墳」のような土の塊がありました。私は、てっきり、「古墳」だと思ったのですが、「土塁」の残骸でした。この「土塁」の上には、いくつかの「石碑」が立てられていて、歴史を感じました。この「土塁」周辺は、本丸跡と考えられます。現在は 道路が走っています。

そこから中に入ります。そこは、現在、神社になっておりました。「城中八幡神社」と書かれています。元「城」でしたね。周囲は 崖になっていて、「城跡」は 高台にあります。「高台」なら 敵に一気には 攻められません。城の立地も大切です。ただ「高台」だと 味方が 周囲を敵に囲まれると、逃げにくいです。城が落ちる時には 全滅しやすいです。

岡見氏の一族「岡見中務大輔宗治」が足高城主であった時、1588年(天正16年)、宗治の祖父「岡見入道」が「多賀谷重経」に内応した為、城内は混乱し、宗治らは牛久城へ逃走して、「足高城」は遂に落城しました。

 現「つくばみらい市」での城跡は、戦国時代の一場面ですが、天下が統一されるまでの間、全国各地で激しい戦いが繰り広げられました。

私は 各地の「城跡」を訪れる度に、「戦国時代に生まれていなくて良かった!」と思うのでした。

岡見氏は、筑波の小田氏から分流しましたが、小田氏が没落してからは小田原の「後北条氏」と同盟し、「多賀谷氏」と戦ってきました。そして、天正18年に「豊臣秀吉」の関東攻めで、岡見氏は「後北条氏」と共に「牛久城」と「足高城」その他の「子城」を去ったのでした。

「豊臣秀吉」は、子の「豊臣秀頼」の時に、「豊臣秀吉の子分」であった「徳川家康」に、「大阪冬の陣」と「大阪夏の陣」で、「大阪城」を追われ 長かった「戦国時代」が ここに終了しました。各地の「城跡」は 集約される「歴史の一時期」なのです。

 

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