「多賀谷城」は 平城です。下妻城とも呼ばれます。東西に沼と河川(小貝川・鬼怒川)、南方に湿地帯を控えていたことから、北方への防御態勢が重点的にとられ、「常陸国下妻城図」によれば北には土塁や濠が七重にも巡らされていました。これは単に北側に自然的障壁がなかっただけでなく、北方に多賀谷氏が敵対した結城氏や水谷氏の領地が存在したことが影響しています。
城は館沼(たてぬま)によって東西に分断され、沼の東側に本城(本丸)・中城(二の丸)・三の丸・北城・南館(姫曲輪)を、沼の西側に西城を置いていました。周囲に小野子(多賀谷一族の居住地)・虚空蔵曲輪等を配していました。城域は南北1,500m×東西900mでありました。
土を台地上に盛った土塁を複数築き、土塁の周りの掘割には大宝沼から引いた水を満たし、主要な土塁は7つの橋で結びました。これを「多賀谷七構え」と言ったそうです。
凄い城でした。戦国時代から「多賀谷城」は強固な城として、現茨城県下妻市一帯を固め、戦国時代を生き抜いてきました。
東軍の「徳川家康軍」が西軍の「石田三成軍」と戦った「関ヶ原の戦い」、「多賀谷城主・多賀谷重経」は、「徳川家康軍」に参加して、西軍と戦うように、命を受けましたが、当時の「城主・多賀谷重経」は、戦いには参加しませんでした。「関ヶ原の戦い」が済んで、「徳川家康」が天下を取ると、家康に恨まれた「多賀谷城主」は、城の破却を命じられました。「多賀谷藩」の武将も女も行き場を失いました。
逃げ場を失って 自刃しますか? 知らない場所へ逃げますか? 知らない土地で その後 平和な暮らしを選びますか。
その時の女性たち姫・女中・奥方ほか300人は、互いに腹を切り合い、自刃して果てたのだそうです。女たちの死体が 城の掘割に 無数に浮いていたのだそうです。
街の人々が、その累々たる死体を集めて、寺に葬ったのだそうです。
その後 有士たちが、「墓」を建てました。下妻市にある「法泉寺」に、その美女たちを弔った「美女塚」があります。
私は、その「美女塚」に行って、「何と 勿体ない死に方だったのだろう!」と悔やんだのでした。400年も昔の「多賀谷城の悲劇」ですが、とても悲しくなりました。昔は 落城すると 皆が集団で自刃することが よくありました。悲しいことです。
私は「美女塚」を後にして、「多賀谷城跡」の「砂沼公園」で しばらく、心が泣きぬれていました。悲しい出来事があるものです。
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