茨城県ひたちなか市の虎塚古墳・十五郎穴・埴輪を焼いた馬渡埴輪制作遺跡 | 西村治彦の日記

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ひたちなか市の埴輪制作遺跡・虎塚古墳・十五郎穴

 この日は茨城県ひたちなか市にある古墳と遺跡を廻りました。同行は 新人の清水敦司とベテラン森田いづ美であります。

千葉事務所から茨城県ひたちなか市までは 遠いのですが、外環道の完成で近くなりました。2時間で到着しました。

 まず、「虎塚古墳」に行きます。「虎塚古墳」は 前方後円墳で 墳長は56.5mあります。高さは5.5mです。古墳時代末期の7世紀初め頃に造られました。玄室(石室)があり、中には 見事な壁画が発見されたことにより 有名になりました。

 装飾には赤色のベンガラ(第二酸化鉄)が使用されています。玄門には、凝灰岩に連続三角文が描かれています。また、玄室には、前面に白色粘土を下塗した上に、壁上部には連続三角文が描かれ、その下には三角文・円文・環状文・渦文などの幾何学文様と大刀や靭(ゆき)・鞆(とも)などの武器・武具、装飾品などの文様が描かれています。この装飾壁画は、保存状態も良く、東日本を代表するものなのだそうです。

 「虎塚古墳」の近くには「十五郎穴」と言う変わった名前の洞穴遺跡があります。少し歩きますが 行きました。こちらも 古墳です。亡くなった人を 穴の中に葬った古墳であります。付近には 多くの穴があって、全部で 272基 発見されているそうです。

1.      「十五郎穴」という名前は、昔、蘇我兄弟(五郎と十郎)がここに隠れ住んだという伝説からとされているそうです。曾我兄弟の仇討ち(そがきょうだいのあだうち)は、建久4528日(1193628日)、源頼朝が行った富士の巻狩りの際に、曾我祐成と曾我時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討った事件。赤穂浪士の討ち入りと伊賀越えの仇討ちに並ぶ、日本三大仇討ちの一つだそうです。武士社会において仇討ちの模範とされていました私たちは、「十五郎穴」に入って 遊びたかったのですが、新人の清水敦司はおしゃれで 新調の背広を汚したくないので、穴に入りたくありません。私は 森田いづ美と 二人で 狭い穴に入って 遊びたかったのですが、やはり 穴の中は 古代人の骨が転がっていると思ったので、二人一緒には 入りませんでした。私 一人で入りました。「虎塚古墳」も「十五郎穴」にも、古代人が生活に使った「土器」や「埴輪」が飾られていました。 私は 不思議に思っていたのですが、大量の土器や埴輪は 自分たちで焼いて作ったのでしょうか。答えは分かりました。近くの やはり「ひたちなか市」に「馬渡埴埴輪制作遺跡」と言う所がありました。 この「土器」「埴輪」を専門に造る工房があったので、古墳や遺跡からは 多くの「土器」「埴輪」が出てくるのです。古墳時代の初期には、赤い素焼きの「土師器」が、 後半になって 堅い高温で焼く「須恵器」が出て参ります。「焼き方」も文化で 大陸から入って来たのです。地面に 大きな穴を掘り、古墳時代初期には 穴に 粘土で作った土器を入れ、天井は開けたまま 薪で 粘土の土器を焼きました。素焼きです。   古墳時代後期には、天井の穴を塞ぎ 空気が入らないように 下の穴から 焼きました。現在の陶器を焼く「窯」の出現です。この「馬渡埴輪制作遺跡」には 歴史の変遷を示す「埴輪・土器を焼く窯」の跡があったのです。ここで焼かれた「埴輪や土器」が近くの古墳や遺跡で発見されています。

1 その他、 各地に「埴輪・土器」を焼いて出荷していた遺跡が発見されています。

1   やはり「分業」が 効率が良かったのです。「土器・埴輪」と「干し貝」「干し肉」「米」「その他必要なもの」とを交換して 人々は、生活していたのでしょう。

1 古くから 分業が行われていたことは 興味深いです。

1   食事をして帰ります。帰りも 2時間で千葉事務所へ帰ることが出来ました。

 

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