椿海の干拓の地・かつてあった大きな湖・鎌数伊勢大神宮が建つ | 西村治彦の日記

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椿海の干拓の地・かつてあった大きな湖・鎌数伊勢大神宮が建つ

 この日は、千葉県旭市にある「鎌数伊勢大神宮」を訪れました。「鎌数伊勢大神宮」は かつて、ここにあった大きな湖「椿海」の干拓跡地に建てられた神社であります。

 大昔は、房総半島始め東京湾も現在とは形の違う土地でした。海が大きく入り込んでいました。

 「椿海」は、江戸時代に干拓が行われました。それまでは、海が入り込む汽水の湖でした。

 江戸時代に、人口が爆発的に増えたので、「椿海」を埋め立てて、耕地となし、米の増産が叫ばれました。

幾度もの苦難を乗り越えて、「椿海」は 人の手によって、干拓がなされたのです。

当時の「椿海」は、東京ドーム390個分の大きさがありました。現在の東庄町、旭市、匝瑳市の境界付近にありました。その「椿海」のあった地には、現在「JR干潟駅」があります。

「椿海」は 潮が引くと、「干潟」になったのです。

私は 始め、「面白い名前の駅だな!」と思いました。それは、昔 ここが「椿海の干潟」になっていたからでした。

そして、干拓し終わって、「椿海」の跡地には、社殿を建立、「干潟八万石の総鎮守」として、「鎌数伊勢大神宮」と名付けられました。

「鎌数」は この地の名称、「伊勢」は「伊勢神宮」に お伺いを立てて、戴いた名称です。

伝説の地 椿海

 椿海の干拓事業が盛んに行われれていた頃のことである。白井治郎右衛門(しらいじろううえもん)は、湖の水をどうしたらうまく海へ流すことができるか、大変苦労していた。始めは、東の三川浦(さんがわうら)まで川を掘って流そうとしたが、海水が湖に逆流してしまった。

 白井治郎右衛門は、すっかり困り果ててしまい、日頃信仰していた伊勢大神宮へお願いすることにした。椿の湖へ舟を乗り出し、船中で修祓(しゅうばつ)を行い、

 「川を掘るべき方向を御諭(みさと)しあらしめ給え。何とぞ川を掘るべき方に、この舟を急がし給え」

と祈り続けた。そして、船を湖の中央に浮かべ、風の吹くままに放した。

 舟は、東へ西へ、北へ南へと舳先(へさき)を変えながら、ついに湖の南、鎌数の村へ流れ着いた。

  「神のお告げがあったぞ!」

 「ここが川を掘るところだぞ!」

白井治郎右衛門も村人も、みんな踊りあがって喜んだ。

神のお告げがあったというので、干拓事業に反対していた漁師たちも協力してくれるようになった。

 今のように機械のある時代ではないので、巾二十メートルもある川を掘るのは、大変な仕事であった。川岸が崩れないように柳の枝を編んで埋めたり、難工事の連続だったが、村人の懸命な働きにより、何とか矢指(やさし)が浦の永井浜(匝瑳市吉崎浜)まで川が出来上がった。時に、寛文十年(1670)十二月二十八日であった。

 おかげで、椿の湖はたちまちのうちに干し上がり、寛文十一年の春には、立派な水田が出来上がったそうだ。現在の新川は、この時に掘られた川である。

干拓の成功は、皇大神の御恵みと信じた村人が、船の流れ着いた鎌数の地に大宮柱(だいぐうばしら)を祀(まつ)ったのが、今の「鎌数伊勢大神宮」と伝えられる。(旭市の掲示板から)

 嘘のような本当の話、実際に現在は、「椿海」跡地は立派な大地となっていて、田や畑となり、多くの人々が、生活しています。

 私は、以前は この「椿海」の実話を知るまでは、この地が海であったことを知りませんでした。

先人たちの血の滲むような努力と苦労の上に、我々が生活していると思うと、「椿海」の跡地にある「鎌数伊勢大神宮」を訪れて、大きな感激を覚えるのでした。

 この後、この付近を散策して、私は撮影を続けたのでした。

 

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