茨城県稲敷郡阿見町にある上条城跡探検・北原古墳・古女子古墳探求
この日は、茨城県に出掛けました。茨城県にも、「古墳」がたくさんあります。茨城県には、日本で二番目に大きな湖・「霞ヶ浦」があります。
古墳時代から、「霞ヶ浦」で取れる「貝類」「魚」を食糧に、縄文人は、とても条件の良い暮しが出来ました。「霞ヶ浦」周辺では、人が増えてきて、その人々を統率する力のある「ボス」を中心に、村落を形成しました。それらの人々を統率した「ボス」の墓である「古墳」が、「霞ヶ浦」周辺には、多数存在します。
私は 黒子さんを同行して、「霞ヶ浦」の周辺にある「茨城県稲敷郡阿見町」に出掛けました。
千葉事務所からは、車で、1時間半くらいでしょうか。昼になりました。食事です。
私は この辺りに来ると、決まって「あみプレミアムアウトレット」に、食事に立ち寄ります。
「あみプレミアムアウトレット」からは、世界一大きな「牛久大仏」が見えます。
「凄いですね!」。高さ全長120M、像高100M、台座20Mです。
ブロンズ像としては、世界一大きいのです。この「牛久大仏」を背景に記念写真を撮ります。
食事をして、また出掛けます。目的の場所は、「上条城跡」です。「どこに行くのですか?」と質問されて、「じょうじょうじょう」と答えると、怒りだす人もいますから、アクセントやイントネーションを着けて、歌うように答えましょう。この城が造られた「戦国時代以前」も、「じょうじょうじょう」と答えて、どれだけ多くの人々が、犠牲になったことでしょう。
着きました。
「上条城」は:南北期末、関東管領・「上杉氏」が信太庄(しだのしょう){常陸国信太郡の荘園・現茨城県稲敷郡西部から土浦市・新治(にいはり)郡南部にかけてあった地)を支配しました。家臣団・「信太庄山内衆」のうち「大越氏」が「上条城」に入りました。
室町前期に左京亮(さきょうのすけ・官位の一つ・京<みやこ>の司法、行政、警察を行った行政機関である)・大炊助(おおいのすけ・宮中で行われる仏事、神事の供物、宴会での宴席の準備、管理を分掌する)が「上条城」から出ており、上杉氏が衰えた戦国時代に大越氏は 「土岐氏」に属し、治部大輔(治部省<じぶしょう>は律令制における八省の一つ、その長)・日向守・三河守になりました。
その後、「上条城」は、天文年間(1532年~1555年)に落城し 一時小田系武将が在城しました。
「上条城跡」は、破壊が著しいのですが、水田に囲まれ、一部を掘切された舌状台地外郭と本郭の輪郭を辿ることが出来ます。
私は、「上条城跡」に行き、戦国時代の500年もの昔に、ここで、多くの武者たちが、戦い、敗れ、また 次の権力者がやって来て、また 落城していく姿を想像しました。現茨城県稲敷郡阿見町に、戦国の歴史を見たのでした。
「空堀」「堀切」
「土塁」
戦国時代の城は、土と木と竹で出来ていましたので、残っている遺構は、上記のようなものであります。「堀切」で、敵の急な侵入を防いで、敵が「堀切」を超える時に、槍などで、防衛します。
時には、見えにくくする「つい立」の役目を果たしました。「郭(くるわ)」は 平らな部分です。
江戸時代になると、上から、「本丸「二の丸」「三の丸」と呼び名が変わりました。「郭」には、城主や家臣団の「建物」が造られることが多いです。戦国時代には、城は「石造り」ではないので、遺構には、殆ど、建物などの跡が残りません。
土で出来た「遺構」を見て、古の「兵どもが夢の跡」を思い浮かべるのです。
では、阿見町の古墳に向かいます。近くにたくさんの「古墳」がありました。(つづく)
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