八日市場城址と匝瑳市の古墳群二つ・神崎古墳群と塚原古墳群
この日は、千葉県匝瑳市(そうさし)にある「八日市場城址」を訪れました。
野菜あり、海産物あり、菓子や餅あり、手作りの品物ありと、近隣の人々が売り上げて、収入とします。
やがて 市は、「八日市町」となりました。現在は、「八日市町」と「匝瑳郡野栄町」が、平成18年に合併して、「匝瑳市」となりました。
「匝瑳市」は読めませんね。「匝瑳市」は、「読めない匝瑳市」を「売り」にしています。
中世初期、この地を領した「匝瑳氏」の居城があり、その「匝瑳氏」から、「匝瑳市」の由来があるのです。
さて、私と同行の黒子さんは、車で「匝瑳市」にある「八日市場城址」を訪れました。
「八日市場城」は、千葉氏の家臣「押田氏」の居城と考えられています。
「押田氏」は鎌倉時代からの匝瑳南条庄の在地領主で、戦国時代は、千葉氏の家臣として千葉利胤の妹婿として国政に意見したこともあったそうです。
「八日市場城」に相対するように「匝瑳城址」があります。こちらは「古城」と呼ばれ、「八日市場城」は「新城」と呼ばれました。
押田氏は、陸奥六郎義隆の末裔と言われます。
文明年間(1469~1487)に匝瑳へ進出したと考えられています。
築城も同時期となると想われます。
「八日市場城址」の高台から見える匝瑳高校の校舎が建つ辺りに「匝瑳城」が所在したと伝わります。
中世初期、この地を領した「匝瑳氏」の居城と言われます。
城跡と推定される地は御館台、西城、新城と称されたそうです。
匝瑳氏は4つの系統が確認されています。
神官系、物部氏系(古代)、上総氏系(鎌倉初期)、千葉氏系です。
このうち匝瑳城は千葉氏の系統が拠点として匝瑳党と称する武士団を形成しました。
匝瑳常広、常正の居城であります。
鎌倉末期から南北朝期には勢力が衰え名跡を保つ程度でした。
室町期、上杉禅秀の乱後の上総本一揆討伐の余波で匝瑳氏は滅びました}「一部サイトより引用」
現在、「八日市場城址」は、「天神山公園」として、匝瑳市民の憩いの場として、人々が訪れます。
「八日市場城址」から見えた「背の高い塔」は何でしょうか?気になるので、二人は 近づいてみました。
高い所に いったん水をあげて、匝瑳市全域に水道水を送るのです。
格好の良い「水道塔」でした。(つづく)
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