木更津の金鈴塚古墳に行って・「金の鈴」が発掘された・馬来田族の長の古墳・高柳古墳にも行く | 西村治彦の日記

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木更津の金鈴塚古墳に行って・「金の鈴」が発掘された・馬来田族の長の古墳・高柳古墳にも行く

 この日は、黒子さんが 今年の初出演であります。古墳を中心に場所を探します。

 千葉県は 古墳が 非常に多く発見されています。古墳時代(3~7世紀)に、黒潮に乗って、畿内地方或いは大陸や朝鮮半島から、舟に乗って、流されてきた民族が、房総半島に漂着し、そのまま、定住したと考えられます。大陸や朝鮮半島からの文化のひとつは、「古墳」でした。

 ここ木更津市にも大きな古墳があります。

木更津市で代表的なものは、「金鈴塚(きんれいづか)古墳」です。

墳長は100m、周囲の堀を含めると、140mの長さの「前方後円墳」です。

これほど大きな古墳は、この付近では 見当たりません。相当 力のあった豪族の古墳に違いありません。しかも、「金鈴塚古墳」からは、「金の鈴」が 5個も発掘されました。当時、「金の鈴」を持っていた人は、「豪族の長」としか考えられません。この辺りには、「馬来田族(まくたぞく)」が 勢力を張っていたと考えられています。近くには、「JR馬来田駅」があり、

「馬来田族」を思い出させる名称であります。当時、各地を治めていた種族は、「国造(くにのみやつこ)」と呼ばれた当時の役人であります。その地を纏める責任者がいないと、人々は安心して生活出来ません。

 木更津市には「古墳」が多いのですが、宅地開発や田畑の開墾のために、多くの「古墳」は破壊されていきました。

 ここ「木更津・金鈴塚古墳」も、140mもあった大きな前方後円墳でしたが、

「小櫃川(おびつがわ)」沿いの低地であったため、

湿地を埋めるために、「金鈴塚古墳」は 崩されて、埋め立てに使用されてしまいました。それで、現在 残っている「金鈴塚古墳」は、「石室」付近の一部であり、円墳のように見えます。

私は 同行の黒子さんと、「金鈴塚古墳」の石室の中を覗きました。

中が見えるようになっています。それほど、古墳の土は 取り除かれて、石室がむき出しになっているのです。

この石室の奥の方から、「金の鈴5個」が発見されたのです。

その他 おびただしい埋蔵物が発掘されました。それら、「金の鈴5個」と「埋蔵物」は、木更津市太田山にある「金鈴塚埋蔵保存館」に公開展示されております。

私は 以前 ここを訪れ、「金の鈴5個」の写真を撮って参りました。

当時のまま、「金の鈴」は 金色に 光輝いておりました。「金」は 腐食しないのです。また 当時は 既に、「鈴の形」は 現在と同じ形をしていたことも、驚きでした。響く大きな音を出すためには、合理的な形であったのですね。誰が考えたのでしょうか。

 「金鈴塚古墳」には 5体ほどの「遺骨」も発掘されました。

当時の「馬来田族の長」とその家族や付き人の遺骨でしょう。

発掘品としては:純金製鈴5、飾太刀17

金銅製馬具、金銅製飾履、金銅製耳輪、琥珀製棗玉、メノウ製勾玉、水晶製切子玉、ガラス玉、鏡、銅鋺、鉄矛、鉄鏃、土師器、須恵器であります。

出土品の内容などから金鈴塚古墳は、6世紀末~7世紀初頭、前方後円墳の最末期に造られた古墳であると見られています。

古墳から発掘された「金鈴などの遺物と石棺」は、1959年627日、重要文化財に指定されました。

また「金鈴塚古墳の残存している墳丘」は、1950113日に千葉県の史跡に指定されています。

 

 

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