木母寺の悲話・誘拐された梅若丸の物語・母親の花御膳は狂女と化し、我が子を探し、さまよい歩きます。 | 西村治彦の日記

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木母寺の悲話・誘拐された梅若丸の物語・母親の花御膳は狂女と化し、我が子を探し、さまよい歩きます。

 この日は、東京事務所の天沼裕子と狩峯舞が同行であります。東京都墨田区を流れる隅田川の畔にある木母寺(もくぼじ)に行って、梅若丸を弔いたいと申します。

当時の誘拐事件、人売りの物語です。

●梅若丸の悲話と木母寺

 平安時代の中頃、吉田少将惟房と美濃国野上の長者の一人娘・花御膳の間には梅若丸という男の子がありました。

若くして吉田少将がこの世を去った後、梅若丸は比叡山月林寺で修行に励むようになります。

 しかし、同輩との諍いが原因し、月林寺を下山した梅若丸は、琵琶湖のほとり大津の浜(現・滋賀県)で人買いの信夫藤太と出合います。信夫藤太は梅若丸を売り払おうと考え、奥州(現・福島県)へと旅を始めます。長い旅を続けて二人が 武蔵国と下総国の間を流れる隅田川の東岸 関屋の里までやって来た時です。

梅若丸は幼い身での長旅の疲れから重い病気にかかり、動くことができなくなってしまいました。信夫藤太はそんな梅若丸を置き去りにしたのです。関屋の里人たちに見守もられ、いまわ(今際)の際(死ぬ時)に、『尋ね来て 問わば応えよ 都鳥 隅田川原の露と消えぬと』という辞世の句を残し、貞元元年三月十五日、梅若丸はわずか12歳の生涯を閉じてしまうのです。

一方、梅若丸の失踪を知った花御膳は狂女と化し、我が子を探しさまよい歩きました。信夫藤太と梅若丸から遅れること一年、隅田川の西岸までたどり着いた花御膳は、

川を渡る舟の中から、東岸の柳の下に築かれた塚の前で大勢の里人が念仏を唱えている光景を目にします。舟から上がった花御膳に問われるままに里人は、当時12歳の梅若丸という幼子が病気になり、この地で亡くなったのが、

ちょうど一年前の今日であり、

塚を築き、柳一株を植えて供養しているところだと告げます。

『其は我子なり 梅若丸は此処にて果てたるか』。探し求めた我が子がすでに他界していたことを知った花御膳は深く嘆き悲しみながらも、里人たちとともに菩提を弔います。

 その後、塚の傍らに庵が建てられ、花御膳が暮し始めますが、

悲しみに耐えきれず水面に身を投げ、自ら命を断ってしまったそうです。墨田区堤通の 梅柳山 木母寺 は、

梅若丸を供養するために建てられた庵が起源とされています。


元は 隅田院梅若寺 と呼ばれていましたが、天正18年(1590年)、徳川家康によって、梅若丸と塚に植えられた柳に因み、「梅柳山」 の山号が与えられたそうです。


その後、 梅の字の 偏と旁(つくり)を分け 「木母寺(もくぼじ)」 となったそうです。

 同行の天沼裕子は 寺院を廻ると「朱印」を集めております。いわば、「スタンプラリー」であります。寺院を廻って押して戴いた「御朱印帳」を持ち歩いて、訪問した寺院仏閣で、赤い朱印を押して貰うのです。かなり集まりました。

 彼女は、ここ「木母寺」でも 朱印を押して貰う積りで、「御朱印帳」を持参しておりました。省力化ですね。「朱印」を既に押してある紙が 箱の中に置いてありました。300円を入れて、1枚 御朱印を買いました。

この買った御朱印を「御朱印帳」に貼り付けるのです。あまり 人も 来ない寺では、良い方法だと思いました。

 「梅若丸」が亡くなった隅田川の畔、

そこに建てられた「木母寺」、この悲しい物語を「能」で ご覧になった方もおられると思います。

愛する子供が売られるために、誘拐されてしまう。狂った母が、子供を探して、さまよい歩く。子供が既に死んでしまったことを知って、絶望した母親は、隅田川に身を投じて死んでしまう。

悲しい物語、世界では まだまだ、このような事件が起きているのです。日本でも 最近 ありました。未解決です。何人も 突然 行方不明になっています。親御さんの気持ちは、まったく やるせないのです。

 

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