真里谷城址を訪れて、戦国時代の足跡を聞きに行く | 西村治彦の日記

西村治彦の日記

日々の出来事を書いています。

真里谷城址を訪れて、戦国時代の足跡を聞きに行く

 戦国時代は 15世紀末から16世紀末までの 約100年間、各地に台頭した戦国大名によって、戦いが繰り広げられた時代であります。


 1456年当時は 上総の国は上杉氏の支配地でありましたが、これを敵視する古河公方足利氏の命を受けた「武田信長」が 上総の国に進出します。上総進出の足掛かりとして、「武田信長」は「真里谷城」と「庁南城」を構築し、徐々に 足場を広げ 上総支配に着手していきます。


 「武田信長」の孫の「武田信興(のぶおき)、(武田信玄の玄孫=孫の孫)」が 姓を「真里谷」に変えて、「真里谷城」を治めました。

その後、「武田信興」の孫の「真里谷信清」は「房総管領」を名乗るようになりました。



 そのように、戦国時代に威勢を張った「真里谷城」も 戦国の戦いの中の第一次国府台合戦で 上総地方の支配力を失っていきます。


以降、上総の国は、後北条氏と里見氏との係争地となります。


その後 1590年(天正8年)、小田原征伐にて 真里谷城は 豊臣勢に 攻められ、落城し、廃城となってしまいました。


 戦国時代は 隣が隣を攻める戦いでした。群雄割拠。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と続き、日本は 統一されます。


 そんな 戦いの中で 現千葉県の戦国大名は 淘汰されて参りました。


 「真里谷城」も 戦国の戦いの中の一こまでありました。

私は 先日 「真里谷城址」に行って参りました。広大であった「真里谷城」は 現在は「木更津市立少年自然の家」としてキャンプ場に利用されておりました。

城址は広く、あちこちに その跡を見ることが出来ました。


 「真里谷城」の「真里谷氏」の菩提寺、「真如寺(しんにょうじ)」が 近くにありました。私は、この「真如寺」に 立ち寄りました。


 「真里谷城」の創建者、「真里谷信興(のぶおき)」の墓所を訪れました。

甲斐武田氏が上総にやってきて、上総武田氏となり、この地に 息着きました。上総の武田さんは 上総武田氏の流れを汲む方が 多いと思います。こうして 各地に「武田姓」が 広がっていきました。


 「菩提寺」には 歴代41名の住職が おりました。我々が、「真里谷城」の取材をしていると申したら、寺の41代目の住職「清水俊光」さんが

 丁寧に「真里谷城」と菩提寺である「真如寺」の説明をして下さりました。


 明治維新の折、その「戊辰戦争」で、この辺りは「木更津戦争」と呼ばれ、

「真如寺」には 500名の旧幕府軍が 立てこもって、新政府軍と 戦ったのだそうです。

圧倒的な強さで 新政府軍が 旧幕府軍を打ち破ったのですが、再度 旧幕府軍が 「真如寺」に立てこもるといけないので、

新政府軍は ここ「真如寺」に火を着けて 焼き払ってしまったのだそうです。

それなので その後、「真如寺」は 再建されたと説明がありました。


江戸時代末期の「戊辰戦争」。会津若松では「白虎隊と新政府軍の戦い」、上野では「彰義隊と新政府軍の戦い」、船橋では「私のひいおじいさんが旧幕府軍で戦った船橋戦争」、「(京都の新撰組と伏見奉行軍)対(大山巌を隊長とする新政府軍)との鳥羽伏見の戦い」などなど 各地で 壮絶な戦いが繰り広げられ、遂には、新政府軍が勝利し、明治維新の新時代を迎えました。

 その明治時代に収束される、始めの頃の戦国時代の戦いが、この地、「真里谷城」で繰り広げられ、現在に収束された日本に繋がっていると思うと、身震いがします。


 「真里谷城」に行って良かったと思いました。歴史が 身近に感じられます。身をもって 歴史の勉強になりました。千葉県にも たくさんの「城址」があります。



ブログランキング参加中です。

クリックにご協力おねがいします。

↓こちらをクリックしていだだけますでしょうか。


にほんブログ村