ちょうちん塚の「徳川家康」、御成街道を行く
私の家のすぐ裏を「御成街道」が走っています。何年前に作られた街道でしょうか。1613年の12月から翌年の1月に掛けて、超特急で作られました。
「徳川家康」が東金に鷹狩りに行くために、佐倉城主「土井利勝」に命じて、近隣の農民を総動員して、「アッ!」と言う間に作ってしまった街道なのです。
一夜で作られたので「一夜街道」と呼ばれました。それと 夜「ちょうちん」を灯して それを目印に 夜間も 街道を作っていたとかで、「ちょうちん街道」とも呼ばれています。
その「ちょうちん街道」は現在でも 重要な幹線道路として「御成街道=船橋~四街道線」として、また 四街道から東金まで「御成街道」として 重要な道路として使われています。
私は うちの裏にある、その「御成街道」を通るたび、江戸時代に「徳川家康、2代将軍秀忠、3代将軍家光」が この「御成街道」を 通って「東金」まで 鷹狩りに出掛けたことを、知識として学んだことを 思い出します。
私が 歩いて 脚を踏んだ地面を 3人の将軍は 同じ様に歩いたのでしょうか。
でも きっと「籠」に乗っていたのでしょうね。
江戸城を出て まず「船橋の宿」に着き
一泊し、そこから現千葉市御殿町にある「御茶屋御殿」に行き 2泊目を迎えました。
「御茶屋御殿」に着く前に すぐ手前の「金光院(きんこういん)」に立ち寄りました。
道中 殿様が 寺や神社に立ち寄り 道中の安全と無事を祈願することは、当時は ごく当然のことでありました。細菌やウィールスの存在も分からず、病気に罹らないようにと、また自分たちを守るものは刀と槍程度の当時では 大勢の襲撃には 油断のならない危険な時代でした。
それで「御成街道」沿いには 多くの神社、寺があり、千葉市稲毛区長沼町の「大仏様」も 道中を守ってくれた「お守り」でした。
「御茶屋御殿」の手前には 現在でも「江戸時代」を彷彿とさせてくれる「民家」や「農家」があります。当時の「御成街道」の沿道そのままの風景であります。
道は ほぼ真っ直ぐに作られています。
「一里塚」兼「目印」として「ちょうちん塚」が作られました。少し高くなった塚に「ちょうちん」を灯して、そこに 向かって街道を切り開いていったそうです。
現在 その「ちょうちん塚」が「御成公園」内に
当時のまま 残されていました。
この「ちょうちん塚」の脇を「家康」「秀忠」「家光」は 通って行ったのです。
家康:「皆の者! しばし 休め! 我と「お万」は 休むでよ。みなも休め!」
お万:「疲れたでよ! 殿と我は 今から 公園で遊ぶでよ!籠から下りる!」
二人は 籠から降りても お付の者が ぴったりと着いていたことでしょう。
実際に 道中 自由に遊べたのでしょうか?
殿様と側室は 辛いです。(続く)
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