千葉氏累代の墓 大日寺 | 西村治彦の日記

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日々の出来事を書いています。

千葉県、千葉市の名付け元、「千葉氏」累代の墓

千葉市や千葉県に住んでいる方は「千葉県と「千葉市」の「千葉」が どこから来たのかご存知の方も多いかと思います。「千葉」は「千葉氏」から来ています。「Mr.千葉さん」は千葉県、千葉市の名付け親と言っても 良いのです。
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 そんな 大切な「千葉さん」を 知らずして 自分の住んでいる「千葉」を語れません。

 「千葉氏」は もともと 現千葉市を中心とする関東の豪族でした。古墳時代から 力を貯めた地方の有力者は、「豪族」と現在では呼ばれ、地方を纏(まと)めてまいりました。

 それでも 当時、奈良、平安時代の「千葉さん」は 平氏を中心とする朝廷の下に配属され、思いのままにはなりませんでした。

 そこへ鎌倉幕府の創設者「源頼朝」の協力者となって、「千葉氏」は、幕府成立と共に 広大な土地を与えられ、関東を支配する力を与えられます。

「石橋山の戦い」で「平家」に追われた「源頼朝」は 房総半島の安房の国へ舟で逃げます。その「源頼朝」を助け、他の同属武士たちと 協力して盛り返し、たった1ヶ月で、鎌倉幕府を築き上げた原動力となったのです。

時の「源頼朝」と一緒に戦った協力者は「千葉常胤(つねたね)」でした。
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鎌倉幕府後半には千葉氏の力関係は弱くなり、「千葉広常」は 謀殺され、「千葉貞胤(さだたね)」は「鎌倉幕府」を捨て、「室町幕府」設立の原動力となった「足利尊氏」「新田義貞」双方につきました。

 また かなり経って 室町幕府が弱体化した時、諸武将が あちこちで 戦い始めた「戦国時代」へと突入します。

「千葉宗家」は 滅ぼされ、「千葉氏」は 台頭してきた「北条氏」の配下に入ります。そして 現市川市での「国府台合戦」で 里見氏、上杉氏と戦うことになります。「国府合戦」では 勝負がつきませんでした。

 このように 我々 千葉に住んでいる者にとって「千葉氏」の 長い 長い歴史を知らずして、「千葉市」「千葉県」を 語ってしまうと、つまらない人生になりそうです。

 私は 先日「千葉氏累代の墓」に行ってまいりました。

千葉市稲毛区轟町にある「大日寺」に「千葉氏累代の墓」がありました。
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「大日寺」は本尊が「大日如来」です。それで「大日寺」と 呼ばれるようになりました。
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この寺に たくさんの「千葉氏累代の墓」があるのです。
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私は墓石をよく見ましたが、長い年月で墓石の風化が進み、誰の墓であるのか 判読は無理でした。ある時期までの「千葉氏累代の墓」であります。石を積み上げた「五輪の塔」の墓が 主な墓でありました。
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 この中に 上記に上げた「千葉氏」の墓があるのでしょう。15代分の墓であるそうです。
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千葉氏、千葉県の元を作り上げた「千葉氏一族」の墓を訪問して、一段と「千葉氏一族」の研究をしたくなりました。
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 私の家の近くに 京葉道路の「武石インター」があります。ここは 千葉氏累代の「武石氏」が 支配していた地域であります。
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ここら辺りの「武石町」を車で 走らせていると、木造で現存している「千葉常胤」の顔とそっくりな男たちを 見ることが出来ます。 
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どこの家から出てきた男たちも、みな 顔が そっくりであります。遺伝ですね。何年 経っても 顔の作りは変わりません。顎(あご)が先に細くなり、卵型の顔をしています。

 ヨーロッパ人は いつまで経っても ヨーロッパの顔、アフリカは いつまで経っても アフリカの顔。遺伝なのですね。

 信じられない方は「武石町」に 行って、窓から顔を出す男の顔をよく見て下さい。農作業で道を歩いている男の顔を見て下さい。
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私は写真を撮って、皆さんに お見せしたいのですが、今のところ、タイミングが合いません。どうやって窓から顔を出す男の顔の写真を撮ったら 良いでしょうか? 道を歩く お百姓さんの顔をどうやって 至近距離で撮ったら良いでしょうか?  

 分からないから教えて下さい。