さて、お次は
 

いや、これはちょっと違うな。

こっちの方が有名だな。

東京帝国大学入学者(1944年)の三島由紀夫だ。

 

三島は学業において非常に優秀で、

学習院高等科(現・学習院大学)を首席で卒業している。

 

太宰と同じく、在学中に小説にのめり込むものの、

太宰と違って、学業をおろそかにはしなかったようだ。

 

学習院卒業の際、昭和天皇から恩賜の銀時計を授与されている。

 

先程話した「優先順位制」によって、入試は免除され、

東京帝国大学に推薦入学した。

 

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再掲するが、この優先順位制は、三島のような優先枠以外からの進学には

途方もない足かせとして立ちはだかっている。

 

当時の大学入学者選抜方法としては、

志願者の出身学校によって入学に関する“順位”を付与する「優先順位制」が採用されていた。
 

これは、

予科を置く大学(七帝大など)では予科修了者に、

予科を置かない大学の文系学部では旧制高校「文科」卒業者に、

理工医学系学部では旧制高校「理科」卒業者に、

それぞれ入学に係る“優先順位第1位”を付与していた。
 

 “優先順位第1位”の志願者数が当該大学(学部)の定員を超えた場合、

その「第1位志願者」のみについて入試が実施された。
 

 他方、第1位志願者数が定員を満たさなかった場合は、

第1位志願者全員が“無試験合格”となり、

欠員補充は「優先順位第2位以下」の志願者に振り向けられた。

 

平たく言えば、一高は「東京帝大・予備校」であり、

「一高以外から入学する奴は、所詮『余所者』」ということか
 

欠員補充に旧制高校以外の出身者があてられたことから、

それらの入学者は“傍系入学者”と呼ばれた。
 

たとえ帝大であっても、第1位志願者数が少なく定員に欠員を生じた場合、

第1位志願者は“無試験合格”が許可されていた。
 

 例えば、東京帝大や京都帝大の場合、文学部では学科によって

第1位志願者数が定員を満たさない年度もあり(太宰の仏文科がそうであった)、

無試験入学者もいた。

 

他の帝大でも理系や医学、法学等は第1位志願者数が多く厳しかったが、無試験同様の学部(学科)もみられた。
東京帝大や京都帝大以外の帝大では、傍系入学者も少なくなかった。

 

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当時の東京帝大というものは

一高(現・東京大学教養学部)から多くの学生が入学したのだが、

学習院から推薦された三島は相当に成績が優秀だったのだろう。

 

実は三島は中学入試・高校入試で開成中学(当時も多数の東大合格者を出していた)

や一高を外部受験したのだが、不合格となり、仕方なく学習院で通したという事情があった。

 

その悔しさをバネに学習院で勉強し、主席を勝ち取ったのだから、大したものだ。

 

今で言うと、

中学受験で開成や灘に不合格で、

高校受験で開成や灘や筑駒(筑波大付属駒場)に不合格で、

地元の三流私立中高に残念ながら進学した挙句、

最後に東大法学部合格を勝ちとるようなものか。

 

それでもそのルサンチマンはくすぶっていたらしく、

三島の息子・平岡威一郎が中学受験で開成中学に合格し、

世代を超えたリベンジを果たしている。

(平岡は開成中高に進学した後で慶應義塾を卒業。実業家として大成する)

 

これで祖父・父・息子と

親子3世代に渡って東京帝大法学部卒、

というエリート一族の誕生である。

 

とはいえ、学習院時代から文学に傾倒していた三島は、なぜ文学部に進まなかったのか?

と言う疑問は残る。

その理由としては、

東京帝大法学部卒で官僚を務めている父の勧めがあったからであろう。

 

「文学なんかやめて役人になれ!」というスタンスだった。

実際に三島の部屋に入って原稿用紙をビリビリと破り捨てていた。

 

その後母・倭文重がインクや原稿用紙をこっそり調達して助けていたそうだ。

 

実際に三島は帝大法学部卒業後、一旦は大蔵省に入省する。

が、しかし官僚と文筆業の両立は難しく、結局すぐに退職となる。

 

しかし、三島は法学部で学んだ

団藤(だんどう)重光教授による刑事訴訟法の講義の

「徹底した論理の進行」が小説を書くうえで非常に役立った

、とのちに語っている。