実は昨日、塾講師時代のノートを見ながら

天皇主権説を提唱する国家社会主義運動を進めた上杉慎吉

VS

民本主義(天皇の主権の枠内で、最大限国民の権利を主張)を唱える吉野作造

というような

「銀時計組の壮大なバトル」

を書こうと思ったのだが、

あまりにも難解なので、まとめるにも時間がかかり過ぎてボツになってしまった。

(まぁ、要望があれば再掲します。)

 

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それよりも、次の記事がメチャクチャ面白いので先に掲載することとする。

 

文豪というのは、「クズ」や「メンヘラ」と評される人物が多いのだが、

極めつけのぶっ飛ばしが、この太宰治なのは間違いない。

 

彼は何と言っても「自殺マニア」で、

最初に自殺を試みたのが旧制高校の時。

玉川上水で、本当に自殺するまでに20才から38歳までの18年間で計8回にも及んでいる。

そのうち女性を伴った3回は心中だ、という。

 

「海外の作家は発狂するが、日本の作家は自殺する」とはよく言うが、

あれほど自殺を繰り返す、というのは珍しいと言える。

 

普通なら、自殺を企画して1回目で亡くなるのに、5回も繰り返すとは。

余程死に取りつかれているとも、劇場型題材を求めての繰り返しと見るかで、意見は分かれる。

 

しかも、妻には「一番愛してる」と言うが、

そのくせ愛人や芸者と次々と心中するのだから・・・

 

言わば「芸者殺し」の称号を与えるのにもやぶさかではない。

(こういうと、太宰ファンから怒られてしまうが。)

 

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話を学歴に戻そう。

 

太宰治は自殺だけでもこれだけ書くことがあるのだが、

彼は青森県の旧制弘前高等学校(現・弘前大学)出身で、

東大に無試験で入学した一人である。

 

青森県立青森中学校(現・青森高校)時代は成績も最優秀。

1年時から卒業まで級長を務め、卒業時の成績は162人中4位という抜群の成績だった。

 

1927年、旧制弘前高校に優秀な成績で入学する。

 

しかーし!

この時期(20才)から、

自殺癖と怠け癖とメンヘラの片鱗が窺えるようにななってくる。

 

彼は勉強そっちのけで同人誌の制作にのめり込み、授業にはほとんど出席せず、

担任教師から「正直さに欠ける」と評価されている。

 

出版社の懸賞小説に応募するも落選。 自殺未遂(しかも2回)までやらかしている。

授業中の彼のノートは「妄想」が渦巻いていた。

 

「太宰治 ノート」で検索すれば、幾らでも見られる。

母校・弘前大学付属図書館に蔵されているものだ。

 

まさか太宰も、自分のノートがこんな形で晒し者になっているとは思うまいよ。ww

 

そんなことをやってるうちに帝大進学の時がやってくる。

 

1930年、太宰は弘前高校を中の下(76人中46位)のパッとしない成績で卒業し、

フランス語を全く知らないのにフランス文学に憧れ、

東京帝国大学文学部仏文科を志願することになる。

 

この当時の大学入学者の選抜方法としては、

志願者の出身学校によって大学入学の優先順位を決定する、という

「優先順位制」が採用されていた。

 

大学予科を置く大学では予科卒業者に、

予科を置かない文系学部では旧制高校(現・大学)に、

理系学部では旧制高校の理系に「優先順位制」が付与され、第一優先で進学が許されていた。

 

たとえ旧帝国大学であっても、第一志願者が少なく定員を満たさなかった場合、

受験生には「無試験入学」が許可されることになるわけだ。

 

工学部や医学部は人気で入試が課されていましたが、

文学部などは不人気で、無試験入学が許可されることがしばしばあったのだ。

 

太宰の入学当時(1930年)は理系の大人気。

文系は学徒出陣で戦地に赴かなければならなかったが、

理系は学徒出陣を受けずに安心して進学できるのが最大の理由。

 

文系でも英文科や国文科には入試が課せられていたが、仏文科は不人気で、

なんと仏文科に無試験で入学することが出来たのだ。

 

太宰はそれに付け込んで仏文科に出願した面もあったのだが、

不運なことに

1930年に限って仏文科は定員を超えて、入試が課せられることになった。

 

目算が外れてしまった太宰は、

他の志願者と共に受験会場で手を挙げ、

試験監督の辰野隆(東京帝大教授)に泣きを入れ、

「格別の配慮」で無試験入学が認められた

という、なんとも情けないエピソードが残っている。

 

真面目に勉強している現代の東京大学受験生が聞いたら発狂してしまうような話だな。 全く。

 

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ちなみにその後・・・

 

太宰は帝大の講義について行けず、

美術史学科などへの天下を検討したのだが、それも実現できず、

結局留年の末に除籍となっています。

ちなみに本人の意思で大学を去るのは「中退」

除籍とは、会社で言えば「クビ」にあたる。