不滅の天才絵師・葛飾北斎。

 

その生涯を早稲田文卒の友人に聞かされて、大いに笑った。

(富嶽三十六景・神奈川沖浪裏)

 

葛飾北斎は、その名の通り武蔵国葛飾郡本所(現在の東京都墨田区)に1760年、生を受けた。

 

そこから流転、というか、怒涛の90年の生が爆誕したのだ。

 

①実は四十六景と、46枚あった。

 

(富嶽三十六景・凱風快晴。いわゆる「赤富士」)

書き始めた北斎が、あまりの人気シリーズになったため、加えて十枚描いたとか。

 

②30回以上も画号を改名した。

極めつけは70代からの

「画狂老人卍」

であろう。

 

あの春画「蛸と海女」を書いた時には

 

「鉄棒ぬらぬら」などという、とんでもない雅号を残しているww

一説によると、私生活でお金がなく、「宗理」の画号をたった4年で問人の宗二に売ってしまう。

そこで

「画号が売れるんだ!」と味をしめて、お金に困ると弟子に売りつけていた

らしい・・・

 

③元祖「ゴミ屋敷」

食事には無頓着で、そこらへんで買ってきたもので済ませ、

紙包みをそこら辺に投げ捨てていたため、屋敷はたちまち「ゴミ屋敷」に!

 

そこまでやっても、そこは北斎先生。

 

片づけることもなく、生涯で93回も引っ越しをして、ゴミ屋敷を次々と量産していたらしい。

 

④本当に「狂人扱い」されていた!

(提灯お岩)

 

そんな風なもんだから、外出する時もボロボロの恰好で、念仏を唱えながら歩いていたため

周囲の人から「狂人」と思われ、近づきもされなかった、とか。(そりゃ怖いわな・・・)

 

⑤金銭にも無頓着

(番町皿屋敷

 

画材にはカネを惜しまなかったため、しばらく極貧生活を送っていた。

 

そのため、借金取りに追われたいたらしい。

 

⑥三女が画才を受け継ぐも・・・

 

三女のお栄が、北斎の画才を受け継ぎ、後継者となった。

 

そこで北斎はよくお栄のことを「お~い!」と
呼びつけていたものだから

その画号を「葛飾応為(かつしか・お~い)」と、とんでもない呼び方で呼んだ。

 

私が思うに、その応為さんも、少しは北斎のゴミ屋敷癖を治そうとしなかったのか、それとも同類だったのか・・・

 

⑦元祖「漫画家」?

・・・かと大作を乱発していた北斎だが

「漫画」も描いている!

大スペクタクル・マンガやないか!

 

かと思えば

ディズニーも真っ青のファンタジーっぷり!

 

かと思いきや

 

ふざけちょるの?

 

どうもこれはわたしも国立博物館で見た

鳥獣戯画みたいな、なんともユーモラスな描写がなされている。

 

⑧顧客と大喧嘩する。

 

あのパブロ・ピカソが、顧客の好み通りの絵を描く「スーパー営業マン」と言われたのは有名だが、

当時の浮世絵師も、顧客の意向で絵を描いていた。

 

ところがある日、顧客の一人が

「口に草履を咥えた画を描け」

ところがこの時、北斎はこう返した。

「バカ野郎、そんな汚い絵を描けるか!てめぇが咥えてみろってんだ!」

自分のハチャメチャさには寛容でも、お己の美学には厳しかった、というところか。

 

⑨いざとなれば、プロに教えを乞う。

人間の筋肉や骨格を研究するべく

接骨医の名倉弥治郎兵衛の弟子入りした。

プロフェッショナルだ!

 

⑩模写で「描けない」と嘆く。

北斎マンガ製作している間、様々なものを模写しているにもかかわらず

「80歳になっても、猫一匹すら満足に描けない!」

と、嘆いたらしい。

 

この人をプロフェッショナルと呼ばずして、誰をそう呼ぶのか?!