慈しみの瞑想について | テーラワーダ仏教とヴィパッサナー瞑想実践

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テーラワーダ仏教の教えを学び、ヴィパッサナー瞑想実践やアビダンマについてのブログです。

質問
慈しみの瞑想を実践しているのですが、周りの人みんなに嫌われていると思っている人が、いきとしいけるひとの瞑想をするのはみかえりを求めるようでいけないということはありませんか。

しないよりするほうが価値はあるのでしょうか。というか矛盾しますが楽になるでしょうか?

答え

人から好かれたいので慈しみの瞑想をするのが見返りを求めているようで不純だと思っているのでしょうか?

どんな動機であれ正しく慈しみの実践を行っていればそのときの心は善心です。

善心が生じるならやるべきですし、善心の結果は楽をもたらします。

質問とずれますが・・・

1.お金持ちになりたいという欲からお布施をする。

2.梵天界で生まれれば永遠に生きられるという邪見で、梵天界に転生したいので禅定の修行をする。

1はお金持ちになりたいという欲(不善心)が縁となって、お布施するという(善心)が生じています。


涅槃の縁となるようにお布施するなどは仏教的に理想ですが、欲が縁であってもお布施したがよいでしょう。

熊本の地震の際の義援金もたとえ売名行為だとしても寄付行為は善ですし、被災者のためにもなります。

屁理屈こねて何もしない人より、動機はともかく善行為する人の方が良いのは言うまでもありません。

2も仏教的にはたとえどんなに長い寿命でも、生まれてきたものは死を避けることができません。
梵天界でも同じことです。

永遠に生きるという目的(邪見)で禅定の修行をするのは問題ですが、不善行為を行い悪趣などに生まれたり、欲界善を為すことで六欲天に転生するよりレベルは高いと言えます。


慈しみの瞑想の功徳で人や天から好かれるというものがあるので、それを目的として実践しても問題ありません。

解脱したいというのも欲だからといって好き勝手に不善を為して生きるより、たとえ欲であっても解脱に向けて戒定慧の実践はするべきです。

凡夫は悪を楽しむという言葉があります。

善心が生じていなければ不善心が生じています。
(悟っておらず禅定に達していないレベルでは速行においては)

とにかく善心が生じるように努力することです。