10月末、孫達の小学校の運動会がありました。

 以前のように盛大に行われることはありませんでしたが、みんな日頃の練習の成果をしっかりと見せてくれ、競技やダンスなど一生懸命な姿にこちらまで元気をもらいました。


 5年生の孫の100メートル競走。あまり運動が得意ではないので先頭の方を走ることはないと思っていましたが、なんと一番後ろからニコニコしながら、「みんな、僕より先に走って!」という感じで走っていたのです。本当に楽しそうに。


 それを見てあの子らしいなと思ったのです。人と比べて早いとか、良くできるとかにあまり興味がなく、もともとマイペースなのです。

後で「楽しそうだったね」というと「ウン!」とまたニコニコ。


 親だったら、つい誰よりも早くとか強くとか、上手にとか思ってしまいがちです。「なんでもっと一生懸命走らなかったの」と言ってしまいがちです。

 でも人と比べて勝つ、ということの裏には優越感や自己満足といった感情があると思うのです。競って負けるということが劣等感、無気力、自己否定などという悪感情を生みます。

 肉体の優劣は物質的なもので、そこに意識がいってしまうとどちらにしても利己的な感情をもたらします。

 私も昔、学校生活の中、同級生と比べられ、競わされる教育を受けてきました。それが当たり前だと思わされてきました。

 しかし本当にそうだったのでしょうか。

 後を立たないいじめの問題とかも、根本はこういうところにあるのではないのかな、そんなことを感じた出来事でした。

📘 シルバーバーチの教え 上

 なぜ人間は戦争をするのでしょうか。それについて皆さんはどう思いますか。なぜ悲劇を繰り返すのでしょうか。その原因は何だと思いますか。どうして人間の世界には悲しみが絶えないのでしょうか。

 その最大の原因は、人間が物質によって霊眼が曇らされ、五感という限られた感覚でしか物事を見ることが出来ないために、万物の背後にすべてを一つに結びつけている大霊が存在していることが理解できないからです。人間は何かにつけて“差別”をしようとするため、そこから混乱が生じ、悲劇が生まれ、そして破壊へと向かうことになるのです。

 あなた方文明人は物質界にしか通用しないシステムの上に人生を築こうと努力してきました。教育と教養を求め、大霊の摂理からかけ離れた文明を作り上げようとしてきました。
 人間世界が堕落してしまったのはそのためなのです。
 長いあいだ人類は、本当は取り壊すべきものを構築することに自由意志を行使してきました。しかし今、ゆっくりと地上の闇に大霊の光が射し込み、混乱と無秩序の中から新しい世界が生まれつつあります。そこにはもはや、不平等も不正もなく、持つ者と持たざる者といった差別もなく、大霊からの賜(たまもの)が全ての子等に平等に分け与えられるようになることでしょう。