人を地位や能力で比較するのは、生きていれば当然あることかと思います。
ですが、それはとても辛いことだなあ、とも感じるんです。
人を出来る出来ないで判断することは、自分にも返ってくる可能性があります。
「リアル」という車椅子バスケの漫画をご存知でしょうか?
高橋くんという高校生は人間を勝ち組か、負け組かで分けていたのですが、足が不自由になった瞬間に、自分が見下していた負け組になってしまったと絶望します。
「もう、何も出来なくなった」と涙するシーンは心が痛みました。
人間の世の中の価値観で分けることは恐ろしいことだと感じます。
「英語が出来るか出来ないか」
「スポーツが出来るか出来ないか」
「名門校出身かどうか」
「どの仕事をしているか」
更には、自分の子供や親を自慢出来るか出来ないか、なども比較し出したらキリがないことのように思います。
聖書でパウロという人は次のように言います。
「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがた一人ひとりに言います。思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい。」ローマ人への手紙12章3節
イエス様を信じているのなら、その「信仰の量り」で人を見ます。
イエス様は人間の目に「出来る人」「出来ない人」で分けませんでした。
それは聖書を読めば見えてきます。
むしろ、せかせか良く働いている人より、イエス様の言葉をゆっくり聞いている人を喜ばれたりしました。
いつでも、精一杯イエス様と共に生きている人を評価されます。
確かに私たちには出来ること、出来ないことがある。それでも、私たちがイエス様と一緒に精一杯生きるなら、神様は喜んでくださる。イエス様は認めてくださっている。
私にとって、そのことはとても幸せなことです。
私には出来ないことが沢山ありますし、人を嫉妬してしまう時もあります。
出来ない自分は周りからどのように思われるのか不安になります。
それでも、私はクリスチャンとして精一杯イエス様と共に生きたいのです。
なぜなら、この生き方は人が何と言おうと神様に喜ばれるのだから。
そのことを分かっていても「人間の量り」で考えてしまう私。
ですが、いつも「信仰の量り」によって考えていきたいと願う日々です。