夏ってお祭りが多いね…。

花火が連日で上がってる。

🎆🎆🎆


秩父は大小様々な祭が

毎日のようにあるんだよ

と聴いたことがある。



今年は地元の祭事係を請け負っている

(輪番制)

1つのお祭り(ご神事)にも

多くの町の人が関わっている。

お役を引き受けてくださる人がいて、

氏子として受け継いでくださる人がいて、

保たれている。

知らないことばかりだ…

祭

地域のおじさんおばさんは

私のコトも

父母のコトも知っていて

恥ずかしい…爆笑

でも、なんかいいな…照れと思えた。

幼少の頃、遊びに行ってくると言って

おばあちゃんのお友だちの家に

お茶のみに行ってったっけなぁ…爆笑


見守られていると思うのと、

監視されてると思うのとでは

安心感が違うな。

地域性、関係性イロイロあるだろうけど、

結局は

自分の心の状態で変わるのだとおもう。


やはり己次第。



大峰での行もそう。

家族の間柄もそう。

一人で生きてないなぁ…と

またもや沁沁です。

全てに多くの人が関わっている。


お陰様っていう自然愛





数日かけ動画の整理


動画整理で顔が火照るチュー

うんもーーーーーぉえーん


なんでみんなフォーマットやら形式やら

配線コネクト部分やら

同じにしてくれないの!?

と、呟く。


付属のソフトで編集?なにそれ


デジカメからスマートフォンへ

スマートフォンからUSBへ

USBからパソコンから

SDカードへ

ビデオカメラから…うずまき


テレビで観るのも

配線の仕様があるのね…

Aタイプ Bタイプ?

え?ミニってなによガーン

ワカランチン


困難も1つ越えれば

あとは同じ

パターンを覚えれば

みんな同じ


時々ある

イレギュラーも

回避方法や

応用や、妥協ができれば

見え方が変わって

より良い方法が生まれたり

簡素化に出来るコトも…。


今までよりも楽になる。

今までよりも広くなる

今までよりも自信がつく


経験が増えただけなのにね(笑)

これも人生の行ですな爆笑


ブレちゃいけない軸とか

押さえておきたい要点とか

これも経験と実践の繰り返しで

気がついていく。

越えた分大きくなるってやつだな。


電子機器も人間関係も

自分の人生も同じだな。





慣れって怖いガーン

まぁいいか…。

これでいいんだ(諦め)…。

コレヤダナ…

面倒だな…

つまんないな…

辛いよ逃げちゃえ…

で堕ちていくドクロ

自分の質や価値を落としているのは

自分の弱さ


頑張ってみて無理なのと

頑張ってるふりして無理なのは

大きく違う。

この「ふり」や「風」は

行動に出る。







あまりにも贅沢だった

今回の時間はそれでよくて…

私の一番の思いはどこだろう

なんで、

やりきれないんだろ…。


私の心はなぜかCoolだ。

感動して泣くのにCool

なぜ?



入れ物が大きくなった分

自分がより小さく見えるんだ…


そう思えたらスッキリした。

と、言うことは、


そう言うコトだ。


「考えるな感じろ」

「いいから(言われたことだけ)やれ」

「謙虚であれ慢心するな」

と行者ならなるわけだ。

単純であるから素晴らしい(笑)



考え込むと止まる

損得、快不快、いい悪いの

我欲欲望、貪瞋癡の三毒

悪い妄想に捕まる。

そして逃げ癖、妥協癖、責任逃れ

の悪循環

収まってたら何も変わらない


だから、考えるなやれ。


ここで満足するな

更に励めよ

武尚の名のもとに…


あらま、しっくりくる…笑い泣き



龍泉寺院主(師匠の師)が

「武尚院を称することを…」

と耳にしたとき…インスピレーションで、

「ますます励めと言われてる…」

と感じた。

これは、師匠が言われてるのではなく、私たちも含む彼(師匠)へのエールなのだという

感覚が、後追いでさらに緊張と闘志として

心に湧いた。


身に余る経験の数々。

想像以上の待遇に加え、院号の授与は

記念行事への

嬉しさ、喜び、希望、感動、感謝の反面

不安、緊張、焦り、気迫、重圧、の感覚に

拍車をかけた。


器の品格が上がった分

中身の私たちはどうなんだろう…

ヤバい…


やっぱりウカウカしてらんないプンプン

天川洞川の縁者さんや

修験道を学ぶ者、神仏に遣う者

いやいや、ご加護くださる神仏との巡りや縁、

皆のためにも

自分のためにも

ここで収まっていたらいかんだろ!

やっぱり霊性、仏性の向上は不可欠

邁進的六波羅蜜の実践は続く






「尚」は「こいねがう」「尊ぶ」「高い」などの意味がある漢字。「尚」は「八」と「向」に分解でき、「八」は神様の気配が降りてくる様子を表し、「向」は窓明かりの差し込む祈りの場という意味があるらしい。2つを組み合わせ祈りによって神の気配が現れたことを表現するようになり、そこから神様に

「こいねがう」という意味が生まれました。

そこから「さらに高くする→付け加える」と変化して、「今は尚(ナオ)」や「尚更(ナオサラ)」などに使われる意味ができましたそうです。


会意。止(あし、すすむ)と、戈(か)(ほこ、武器)とから成る。戈(ほこ)を持って攻めに行く意を表す。

武は「戈」と「止」を組み合わせた漢字です。「止」は、殷代の甲骨文字では足の爪先のイメージから「歩くこと」を表しています。「戈」は武器のことなので、「武」という漢字の本来の意味は「戈を持って前進する」、つまり出兵です。

「戈」は長い柄の先端に直角の刃を取り付けた形、

剣と斧の中間のような、鍬に近いような物です。

色々な使い方ができるので、戦場では兵士たちの一般的に使われた武器でした。


何でもこなす峯龍先生(曼荼羅小屋)にぴったり爆笑






持続的継続が第一

それが精進


自分の中の「ナンデ?」

を見送らないようにしてみよう。

おねがい