お気楽さま~ぁと言われて


その挨拶いいな🎵と思ったFUSAYOです。


ご訪問ありがとうございます。



本日は懺悔について口笛

思うことを書き残そうと思います。


私も過去は素直に謝れる人間ではありませんでした。今も素直に認めない(謝れない)コトがしばしばショボーン

後になってから、悪業因縁を生んだのは自分なのだな…と反省をするものです。




懺悔と聞くと

だいたいの人が「ネガティブ」「後ろ向き」なイメージを抱くものです。

対する相手や話を聞いた側も、

  責めてる訳じゃないのに…とか

  そこまで悲観的にならなくても…とか

自分(相手)への思いやりから「己」を保守したい気持ちが湧くものです。


保守=守りたい 守ってあげたい


つまり懺悔する行為には事象の結果に『対する相手がいる』が自動的に成立し、相手への怒りや悲しみが生じ感情を揺さぶらせるわけですね。

他があって成り立つ行為であるから実に自動的におきる…。


懺悔と言う言葉や行為には 

人間的感情(感覚)から必然的に「悪いこと」「かわいそう」「辛い」など後ろ向きな連想が始まりやすい訳です。

しかも相手にたいしての謝罪という要素が大きい。



本来の仏典で言う懺悔は

自分が犯した過去の過ちを神仏や師僧の前で告白し、悔い改めること。



注目は、 

重点されているコトが、相手への謝罪ではなく行いを改めること。自分の行いの振り返り。という事と、

告白する事 開示する事 

これも言霊の力です。



原始仏典(お釈迦様の教えに一番近い)での法話があります。

当時の仏教教団(僧伽サンガ)では、入門した出家修行者が守らなければならない戒律は250項目(比丘尼はもっと多い)を越えるものでした。

とても厳しい戒律を守り続けることは困難を極め、時として気の緩みから守ることが出来なかったりしました。過ちを犯してしまった者は師や兄弟子の前で告白したり、仲間内で告発し合う「布薩」(ふさつ)とい行事がありました。


自ら自省し、これ以上罪をつくるまいと鼓舞したり、仲間同士で励まし合ったりしていたのだと思います。

信頼関係も感じますね。チクられて怒ってたら悟りも、菩提心あったもんじゃないですもんね(笑)

最初っからチクられることするなよ!ってコトですよねw


当時の修行者は目覚める事に本気であり、本当の意味で、苦を滅するコトがどういう事かしっていたのではないでしょうか。

独りでの行は難しいし、困難が当たり前だってね。





因果や因縁と言う考え方には

自分では気が付かない過ちも罪になります。

常に正しい行いを選択行動するタメには、戒律を守るところから修練する事が堅実な道だと考えていたのだと思います。


戒律=型(経典や教え) という訳です。


書かれていることをやっているから問題ないだろうと言うのも厳密には違いますが、先ずは戒律を守るところから。





過ったと気がついたら 

➡️反省し、認める。


➡️次は同じ間違いはしないぞ!と宣言。心に決め(自分に約束する)


➡️過去の気がつかない多くの過ちは相殺されたかも解らし、今の業から因果によって犯すであろう未来世にたいしても許しを請い続ける。存在してることで多くのモノの支えあっての事だしね。


➡️謝る事で自分から歩みよりの意思表示


➡️同調、調和の始まりになる…


やっとこ 神事の始まりよ…ガーン 


コレが私の思う懺悔文の底力だと思っています。

だから序盤に来るのね…



自分の身を改めてから

相手(物や人や神仏など全て)に歩み寄ると言う姿勢… 

その準備と決意 

カッコいい… 



自分の行いの結果は自分で受け止める(自業自得、因果応報など)と言う法則が成り立っているとするならば、過去の過ちに対して悔い改めることが出来るのは自分自身でしかないよね…。

という行者らしいケツのフキかた笑い泣き

自分のコトが出来ないのに他の事なんて出来ないでしょうよ!というゴモットモな話になるわけですね。

人間全般に適応されるつー話。




懺悔文紹介


我昔所造諸悪業 

がしゃくしょぞうしょあくごう

皆由無始貪瞋痴 

かいゆむしとんじんち

従身語意之所生 

じゅうしんごいししょじょう

一切我今皆懺悔 

いっさいがこんかいさんげ


解釈例

私が遥かなる昔から造ってしまった諸々の悪業は、無限(始まりも分からない)の過去からの貪り、怒り、無知が原因で、身体(行為)口(言葉)心(意念)から生じて出てきたものであるのだから、それらの行いの全てに対し、私は懺悔致します。



捕捉すると

今、懺悔反省 悔い改めて 身を清め

自分を振り返ります。

前向きに精進と信仰を胸に

切磋琢磨と自利利他行をコツコツ行い

小さな気付きを積み重ねる。

いつかハッと閃いた電球

覚った…。


と成るわけですね照れお願い

勤行次第 あなどれない…びっくり





どうでしょうかおねがい

懺悔にたいしてのイメージが変わりましたか?

相手に対して謝るだけでなく、

自分への精進と歩み寄り精神も見えるのです。(ポジティブでしょ)


前回の本覚讃に通じますよね。

深いぞ…仏教

視座視野視点の拡張だー





書ききれてるかは、本人にも不明です…

お粗末様です


お付き合いありがとうございました。

合掌



須弥山世界図(一部)




余談
魂の旅では、天界が終わりではないのです。(と、言われてるし、多分そうだとも思う)
と、言うことは天界の神々にも人間の肉体同様終わりがあるのです🤭
神上がりしたとて終わらず輪廻する魂…
最終着が有るとしたらそれはどこだ…。