チューリッヒ市内でタクシーに乗った好次朗と典子は、運転手に新居のある町まで行くよう伝えた。
その町は湖畔にある小さな農村で、日本からの移民は好次朗らが初めてであった。
都市部ではなく田舎を選んだのは、典子の希望を優先したからである。
都会で生まれ育った典子は、以前より自然の多い田舎暮らしに憧れておりワイン造りに興味があった。
今度住む町は、そんな典子の希望に叶った町なのである。
「あと何時間ぐらいかかるの?」
後部席で並んで座っている典子が、好次朗の手を握りながら訊いた。
「直線距離で250kmぐらいあるから、早くてもあと4時間は、かかるだろうな。」
「まだまだ遠いのね。...ねぇ?途中で休憩するんでしょ?」
「あぁ、もちろん。...今夜中に着けばいいから、どこかで食事でもしていこう。」
典子は、そんな好次朗の腕に頬を当て、幸せな気分に浸った。
「お客さん、高速道路を使ってもいいかね?少し割高になるけど。」
立派な顎鬚を蓄えた、ベレー帽の運転手が、前を見ながら訊いてきた。
好次朗は、あらかじめ調べておいたので、すぐに「もちろん、いいですよ」と答えた。
スイスの田舎道は道幅が狭くて勾配がきつく、険しい山道が多いため、かなりの時間を要することが懸念されたからである。
日本では見られない高くそびえ立つ岩山の向こう側に夕陽が沈んでゆくのを車窓から眺め、あらためて遠い国までやって来たのだと好次朗は自覚した。
午後5時過ぎ、好次朗は高速道路の休憩所で車を止めてもらい、典子と共に売店へ行った。
チーズフォンデュや鹿肉のバーベキューソース煮など、どれも実に美味しそうであった。
「典子、なにが食べたい?」
好次朗が訊くと典子は、頬に人差し指を当て、首をかしげながら「これって、おやつ的なことでしょ?」と言った。
「もちろん。夕食は町直営のレストランを予約しているよ。でも、まだ時間がかかるから少し食べておこう。」
「そうね!あれもこれも食べたくなっちゃう。」
「好きなだけ食べるがいい!」
冗談っぽく好次朗がそう言うと、典子は「もちろん!」と笑った。
いくつかは、テイクアウトしてもらい、タクシーの中で食べることにした。
二人は数時間前、チューリッヒのカフェで貴子に会ったことなど、すっかり忘れていた。
いや、自ら忘れようとしていたのである。
一時は愛し合った貴子との思い出が、今の好次朗と典子にとっては、足に繋がれ引きづっている重い鎖のようにも感じられた。
やがて移住先の町レザンの近くまで来ると、予約したレストランに入った。
店は地元客で賑わっていた。
見慣れない二人のアジア人の入店に、店内は一瞬、静まりかえったが、あとは、どうってこともなく、また賑わい始めた。
遠距離を走ってくれているタクシーの運転手にも、御馳走をすることにした。
フランス語が話せる好次朗は、不自由なく店員と会話をし、料理をオーダーをした。
鴨肉の燻製を食べている時、好次朗の携帯が鳴った。
「もしもし?どちら様ですか?」
沈黙の電話相手に好次朗が、そう言った。
典子の表情が一瞬、曇った。
「ワ・タ・シ...分かる?」
それは紛れもなく、貴子の声であった。
「今ねぇ...すっごく寂しいの。...私のこの気持ち、分かる?...ねぇ?」
「どういうつもりだ?...」
好次朗の声が、微かに震えた。
「私の性格、あなたが一番分かっているはず。...諦めが悪い私の性格。...うふふっ」
好次朗は隣にいる典子に気づかれまいと、平静を装いながらも、貴子の囁きに理性を揺さぶられていた。
【つづく】
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