行き止まりの標識を見つけた彰は、ギアをバックにすると空き地に入り、Uターンして来た道を戻り始めた。
カーナビのないレンタカーで限界集落のような山奥までやって来たのには理由があった。
10年前、一人旅で彰が訪れた時、この辺りにあった古い民宿に泊まった。
料金は格安で二食付き。おまけに露天風呂まであった。
当てのない旅を続けていた彰は、日暮れ時に偶然見つけたこの宿の存在に喜んだ。
宿は女が、ひとりで営んでいた。
薄化粧に肩まで伸びた黒髪。
和服姿がよく似合う、純日本的な美人であった。
彰は2階の6畳間に通されると、お茶を淹れる女将の横顔に見とれた。
一目惚れであった。
女将は「のちほど夕食をお持ち致します。」と笑みを浮かべ言うと、戸を締め出て行った。
女将の淹れてくれたお茶の香りが、女将の黒髪からほのかに漂ってきた香りと相まって、彰の胸を熱くさせた。
夕食までの間、彰は宿の浴衣を持って露天風呂へ向かった。
渓谷の清流が近くに見える、石積みの露天風呂。
どのガイドブックにも載っていない宿だけに客は彰以外に誰もおらず、露天風呂は貸し切りのように独り占めで満喫できた。
夕暮れに色づく黄金の水面と心安らぐせせらぎ。
町での暮らしに疲れていた彰には、この上ない妙薬のように感じられた。
肩まで湯につかり、目を閉じていた彰の耳に突然女将の声が聞こえてきた。
「お客様~~...湯加減は、いかがですかぁ?」
彰は慌てて体を起こし、辺りを見回すと「あっ、はい!...大丈夫です。」と答えた。
今思い返せば、何という事のない出来事なのだが女将の醸し出す得も言われぬ妖艶な雰囲気が彰を過剰に反応させたのだろう。
風呂から上がり、部屋に戻ると、程なくして夕食が運ばれてきた。
女将は笑みを絶やすことなく幾つかの言葉を織り交ぜながらテーブルに配膳した。
会話の中で女将は自分が未亡人であることを、さり気なく彰に言った。
そして最近は宿の客もめっきり減り、この稼業をいつ終わりにするか分からないとも言った。
追加で瓶ビールを頼んだ彰に女将は「お注ぎしましょうね。」と言い、彰の隣りに膝をついた。
その肉感的な色香は着物の隙間の至る所から漂い、彰は我を忘れそうになった。
しかし彰は理性を持って対応し、どうにか過ちを犯さずに済んだ。
彰は今でも思う。
「もしあの時、どこか淋しげな女将の色香に負け、一夜の契りとばかりに抱きしめていたら、あの後、どうなっていたのだろう?」と。
警察に通報され捕まっていたのだろうか?
それとも女将は黙って受け入れたのだろうか?
そんな事を今なお考える自分のちっぽけさに、彰は少し呆れたりもした。
翌日、宿を出る際、女将は彰に手弁当を持たせてくれた。
鮭と鱈子のおむすび2つと煮物、そして、たくあんであった。
一回り近く年上の女将に恋をした一泊の思い出を胸に、10年の時を経て再び現地を訪れた彰。
宿のあった場所に宿の姿はなく、無論、女将の姿もなかった。
「せめて、女将さんに会いたい。」
彰の切ない想いは、晩秋の渓谷を背に募るばかりであった。
【次回へつづく】
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