ショートストーリー640 | 丸次郎 「ショート・ストーリー」
夕刻、晩夏の浜辺に吹く風は、充分に秋の気配を感じさせていた。

海岸から離れるように少し歩くと、草原の向こう側にコバルトブルーのコテージのようなケンジのアトリエが見えてくる。

アオダモの木々が枝を静かに揺らしながら、穏かな時の流を伝えていた。

高く薄く延びたさざ波のような雲が、ほのかにオレンジ色に染まりながら東の沖合いへと、ゆっくり遠ざかってゆく。。。


その広大な空を、互いに追いかけるように飛んでゆく二羽のノスリ。広げた翼で涼風に乗り、優雅に空を舞うその姿は、今のサオリとあまりにも対照的であった。

$丸次郎「ショートストーリー」

右手に持ったバスケットには、ケンジが好んでよく食べるフランスパンとクロワッサンが数個ずつ、それにオレンジと幾つかの野菜、ラズベリージャムの小瓶が入っていた。


アトリエまで続く砂混じりの小道と辺り一面の緑。そして紅に染まり始めた空が、まるで童画のワンシーンのように、ほのぼのとした情景となってサオリの瞳に映っていた。


左手の腕時計に目をやると、ケンジと約束した午後5時30分を過ぎようとしていた。それでもサオリは、いつもの事といった様子で特に慌てることもなく、膝上丈のフレアスカートをなびかせながら緩やかな坂の小道を歩いていった。


ケンジと出会った4年前と何一つ変わっていないこの景色は、二人が共に過ごした時間の短さをサオリに教えているように思えた。


アトリエの屋根から突き出た小さな煙突からは、薄い煙が上がっていた。


「もう、窯入れの作業に入ってるのね。今夜は徹夜かな?...」


海風に流され消えてゆく煙を見上げながらサオリは、そう呟いた。


アトリエに辿り着き、手作りの木戸を開けて小さな庭に入ると、サオリはライオン顔のドアノッカーを摘み、4回ノックした。そして、なぜかケンジが出てくるまで気持ちが落ち着かず、バスケットの中を無意識に覗き込んだりしていた。


ノックしてから10秒ほどしてドアノブが回り、扉が開いた。


「よう..遠くからありがとう。入って」

無精ひげを生やし、肩まで伸びた癖のある髪を後ろで一つに束ねたケンジが、優しい眼差しをサオリに向け、そう言った。


ケンジの長い首と大きな喉仏が、サオリは密かに好きだった。

サオリは声にならない声で「うん..」と答えると、薄暗い室内に入っていった。


「いよいよ窯入れ、始まったんだぁ」


「うん、まだ日中は暑いだろ?...だから夕方、涼しくなってから火を入れようと思ってね。こうして家中の窓を全開にして、明け方まで焼き続けるんだ」



近くの浜辺から集めてきた流木を使って作った自前のロッキングチェアに座り、ケンジは嬉しそうな表情でそう言った。


「陶芸をしてる時のケンジって、いつも子供みたいな顔してる。...」

ケンジを見つめながら、サオリはそう思った。


「それじゃぁ、私は夕食の準備をするね。..手の込んだ料理より、サンドウィッチがいいって言うから、その材料しか持ってこなかったよ」


「あぁ。窯入れの時は、ゆっくり食事なんて出来ないからね。..パンが一番いいんだ」


ケンジは、そう言うと椅子から立ち上がり、部屋の隣の土間にある石積みの陶芸窯へ向った。


「どこまでも、マイペースな人...」

ケンジの後ろ姿を見て、サオリはそう心で呟いていた。


以前、あまりのマイペースさに腹が立ち、ケンジと距離を置いた時期があった。それまで毎日交わしていたメールも一切せず、電話にも出なかった。


ある日、サオリは同性の友にその旨を相談すると、「芸術家肌の人間って、大概そういうものよ。...その代わりね、嘘や策略なんて出来ない無垢な人が多いの」と言われた。


その友の恋人もまた、画家志望の芸大院生であった。


キッチンと呼ぶには粗末すぎる流し台で、サオリはバゲットを切り分け始めた。そして、鍋で卵を茹で、トマトとレタスを水洗いした。


こんな時、最近のサオリは思う。

「私は、いったい彼のなんなのだろう?....」と。


愛は盲目...その言葉が、今までの自分に当てはまるのならば、「今の自分は、ようやく等身大のケンジが見えてきた」...サオリは、そんなふうに感じていた。


それでもケンジが求めれば、それに素直に応えてしまう自分を、サオリは好きになれずにいた。

ケンジを拒む自分と、求め欲する自分が同居している心。。。


「そんな自分を、いつまで続けられるのか?...」

サオリは自分がケンジを本当に愛しているのかさえ、分からなくなっていた。


「おーい、サオリ~!...ちょっと、こっちに来て手伝ってくれ~」

土間のほうから、そう叫ぶケンジの声が聞こえてきた。


サオリは、千切りにしていた黄色いパプリカを小皿に移すと、「はい」と小さく返事をして土間に向った。



土間へ入る扉を開くと、熱風が一気にサオリを包み込んだ。その熱風が渦巻く土間の奥で、ケンジが今まさに石窯の中へ成形した花瓶や茶碗を入れようとしていた。


「サオリ!...この窯の扉が閉まらないように、この棒で押さえておいてくれないか」


全身汗だくのケンジが、顔をこわばらせながらそう言った。


「えっ?..はい...分かった!」


あまりの暑さに翻弄されながらも、サオリは言われたとおり、棒を握って扉を押さえた。


ケンジは金属製のトレーに載せた大小様々な形の器を、柄の長い大きなヘラに載せ、燃え盛る窯の中へ、ゆっくりと入れた。


その時、サオリは熱で朦朧としながらも、懸命に取り組んでいるケンジの姿を見つめながら思っていた。

「この人に頼られている。。。そして、この人を頼っている。。。」


サオリが意識を取り戻した時、ケンジの腕の中にいた。筋肉質の長い腕に優しく抱かれていた。

開け放たれた窓からは、満天の星々が見え、柔らかな月明りが差し込んでいた。



夜風が心地よい窓辺のロッキングチェア。そこに座るケンジに抱かれながら、ゆっくり揺れている。。。


「ケンジを本当に愛しているのか?...その答えが出るのは、当分先のことになりそうね。...」

サオリは、そう思いながら、ケンジの腕に頬を埋めたのであった。。。。









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