ショートストーリー632 | 丸次郎 「ショート・ストーリー」
この雨が降りやんだ時。。。それが、あなたと私の別れの合図。

そんな切ない想いも関係なく、時計の針は、一時も休むことなく無情に進み続ける。

窓の外は、グレーの街。歩道を行き交う人々の顔も、どこか哀しく見える。

雨どいから零れ落ちる滴の音が、メトロノームのようにリズムを刻み続け、別れの時が刻一刻と迫っていることを、否が応にも教えていた。


「最後ぐらい、お互いに笑って見送ろうよ...。」

そう言った友紀子の白く細い指が、愛しげに懐中時計の縁をなぞっていた。雅彦が去年のバースデーにプレゼントしたものだ。


雅彦の視線が、彼女の指先から瞳へと移った。窓についた滴が、ゆっくり蛇行しながら下へ落ちてゆく。そして他の滴とぶつかり、一つになった。


そんな光景さえも、今の友紀子の心には哀しく映っていた。


「初めから何もなかったと思えば、別れは怖くも悲しくもない。...そう思わない?」

友紀子は視線を窓に向けたまま、ふと、独り言のようにそう言った。


雅彦は、そんな友紀子の顔を見つめたまま、黙っていた。今まで二人で歩んできた足跡を、一気に消し去られるような不安感が、雅彦の心によぎったからであった。


「人の心っていうのは、そんな簡単に割り切れるものじゃないよ。...少なくとも俺には無理だ。...」


雅彦は視線を逸らしたままの友紀子を見つめ、やや語気を強めてそう言った。



別れの時、未練がましいのは女ではなく、いつも男のほうだと、この時、友紀子は思っていた。しかし、そんな雅彦が少し可愛くも思えた。

ただ、その可愛いという感情には、以前のような愛情は含まれていなかった。。。


「人は誰でも、いつかこの世から消えてゆくわ。...どんなに大金持ちでも、権力者でも、それから免れることは出来ない。皆、平等にね。...だから、せめてこの世にいる時ぐらいは、誰かを心から愛し、心から愛されたい。...そう思うのかもね。」


友紀子の言葉には、雅彦の独りよがりの愛を指摘しているような含みが感じられた。


しかし当の雅彦には、友紀子のそんな想いは伝わっていなかった。むしろ、なぜ別れ際に友紀子がそんな話をするのか、不思議に思っていた。


そんな雅彦の鈍感さと自分本位な態度の日々に、友紀子の心は孤独を深め、この日を迎えたのであった。



雨がやんで、太陽が街を明るく照らしても、また雲が空を覆い、雨を降らす。自然現象と人の心は、まるで繋がっているように似ている。


「雅彦と別れ、一人の人生を歩み始めても、またいつか、違う誰かを愛するかもしれない。...」


ようやく、心に踏ん切りがついた友紀子は、浮かない表情の雅彦を見つめながら、そう思った。


嫌われ、愛され、妬まれ、褒められ、怒られ、また愛される。。。。


友紀子が、雅彦という一人の男を愛してきたこの4年間は、様々な心境と共に過ごした4年間であった。

その様々な心境の中に、包むような温かさが少しでも含まれていたならば、おそらく今日という日は迎えなかっただろう。...と友紀子は思いながら、冷めた残りのコーヒーを飲み込んだ。


その時、二人が向き合うテーブルに、柔らかな陽が射しこんだ。水の入った透明なガラスコップが優しく反射し、雅彦の目を細めさせた。

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「雨が、やんだみたいね。...」

友紀子は、懐中時計を手に取りながら、呟くように言った。


その言葉が、別れの合図であることを、雅彦もすぐ感じ取った。雅彦は小さく溜め息をつくと、友紀子の瞳を見つめた。


「これ...貰ってもいい?」

友紀子は懐中時計を雅彦に見せながら、そう訊いた。その言葉に、今までとは違う心の距離を、雅彦は感じた。


「当たり前だろ。...それは、友紀子にプレゼントしたものだ。」

友紀子の心が今ひとつ掴めないまま、雅彦は答えた。


「ありがとう。...遠慮なく頂くわ。..」

友紀子は懐中時計をハンカチーフで包むと、バッグの中に仕舞った。


やがて二人は、馴染みのカフェから表に出た。雲間は、みるみる広がり、グレーだった街は、色彩を徐々に取り戻していった。


「それじゃ、元気でね。....今まで、本当にありがとう」

友紀子は優しく微笑みながらそう言うと、右手を差し出した。


「あぁ、こちらこそ。...不甲斐ない俺と付き合ってくれて、ありがとう」

雅彦は心に反して笑みを作ると、ぎこちなく右手を差し出し握手をした。


握手している友紀子の右手が、雅彦の右手よりも早く力を緩めた。その感覚を受けて雅彦は、ようやく友紀子の手を放した。



別々の方向へ、歩き始めた二人。。。。友紀子は暫くの間、背中に雅彦の視線を感じていた。

雅彦は、友紀子が肉眼で見えなくなるまで、立ち尽くしたまま見つめていた。


「懐中時計の針は、明日も、明後日も、この先ずっとずっと同じ速さで周り続けてゆく。...お互い疑うことなく愛し合っていた頃と同じように。...」


友紀子は、そう呟くと、街のざわめきの中へ消えていった。。。。


この時の二人には、いつの日にか、懐中時計の短針と長針のように再び巡り合う日が来ることなど、知る由もなかった。。。。








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