ショートストーリー622 | 丸次郎 「ショート・ストーリー」
「今、あなたの家の近くにいるの。..中央公園の隣にある緑色したカフェの中。...あなたが来るまで、ここで待ってるから」


自宅2階の自室で革張りの椅子に座り、クラシック音楽を聴いていた安田の携帯が鳴り響き、通話ボタンを押して出てみると、女の声がそう言った。


「舞子...困るじゃないか。..プライベートでのルールは、以前、二人で決めただろ?互いの自宅には近寄らないこと..って。妻に感づかれたらどうするんだ?」

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安田は、1階のリビングで映画鑑賞中の妻、奈々子を気にしながら、声を抑えてそう言った。

「ルールなら、ちゃんと守ってるわよ。...このカフェ、あなたの自宅から、ゆうに500mは離れているわ。問題ないでしょ?」

舞子は安田とは対照的に、おどけたような口調で、そう答えた。


「とにかく、今は、まずいよ。...妻に怪しまれる。..そうでなくても今日は朝から些細なことで喧嘩して気まずい状況なんだから」

安田は自慢の顎ひげを指で触りながら、額に汗を滲ませそう言った。


「あはははっ(笑)...会社では部下70人を束ねている安田部長も、奥様には敵わない..ってわけね?..おかしい~!(笑)あはははっ」

携帯から飛び出してくるような舞子の高らかな笑い声が、安田の耳を貫いていた。

「いいわぁ~。...私達のこと、奥様に感づかれたら面倒だものね。..まだまだ、部長と別れるつもりはないし。..今日のところは許してあげる。...でも、このツケは、今度のデートできっちり返してね。..うふふふ(笑)、ねぇ~?部長」


「ああ、分かったよ。...来週、デートの時にしっかりサービスするから。...だから今夜だけは勘弁してくれ。..また、俺のほうから連絡するよ」


「は~い。待ってるからね。それじゃ、奥様と楽しい夜をお過ごしくださいな。うふふふふ(笑)」


舞子との通話を終えた安田は、携帯をデスクの引き出しに仕舞うと疲れきった顔で、椅子に体を預けて目を閉じた。


モーツァルトのミサ曲 ハ短調が静かに流れる室内。...薄明るい照明の下で、暫く目を閉じていた安田は、独り言を呟いた。


「舞子のやつ。...俺の弱みにつけ込んで、いつまでも関係を続けようとしている。..いったい、あといくら欲しいんだ?..愛。..舞子が俺に求めているのは、そんな崇高なものじゃない。あいつが欲しいのは金と体。..そして、幸せな家庭から俺を略奪したいという嫉妬心を満たすこと。..それが舞子の本音だ。..」


安田は以前、仕事で出張した際に水増して旅費精算し、会社から不正に金を得ていた。当時、経理課にいた舞子がその実態を知り、以来、その事を餌にして安田に様々な要求をするようになっていた。


やがて、部屋のドアをノックする音が聞こえた。安田は、ドキッとして目を開けると、ドアに目を向けた。


「まさか...奈々子が俺の部屋に来るなんて珍しいな...」

そう思いながら、安田は返事をした。

「おう、なんだ?...入っていいぞ」

すると、ドアノブがゆっくりと回り、妻・奈々子がトレーにティーカップを載せて入ってきた。


「お隣さんから本場のダージリン・ティーを頂いたの。あなたも飲むでしょ?」

奈々子は、そう言うとデスクに湯気の立ったティーカップを静かに置き、部屋の外へと歩いていった。

夫婦仲が冷めている訳ではないが、結婚10年目を向えた二人に、倦怠期が訪れているのもまた事実であった。。。


ここ最近の安田は、自分が会社の部下と不倫関係にあることを、奈々子が気づいているのではないか?と、事あるごとに猜疑心を抱くようになっていた。


「なぁ、奈々子...」

安田は特に用事もないが、なぜか妻に声をかけた。


その声に奈々子は足を停めて振り返ると、不思議そうな顔をして夫を見つめた。


「俺さ...最近、週末仕事ばかりで家庭をほったらかしにしていただろ。..だから、今度の日曜日は、久しぶりに銀座あたりで買い物と食事でもしないか?」

安田は、ぎこちない笑顔でそう言うと、妻の反応を待った。


奈々子は、少し間を置いてから笑みを浮かべ言った。

「そうね。..でも無理はしないほうがいいわ。...」


妻が部屋から出て行った後、安田は、その言葉の意味を考えていた。

「無理しないほうがいい...か。.まさか..」


安田は、すでに妻が自分の全てを見透かしているように感じた。

今度の日曜日、安田は舞子と隠密デートの約束をしていた。しかし、あえてその日に妻と出かけることで、舞子に暗黙の意思表示をし、不倫関係を絶とうと考えたのであった。


あたかも、その予定を知っているかのような妻の言葉に、安田は顔をしかめ、頭を抱えた。

「これ以上、舞子とは無理だ。...このままでは妻さえも失ってしまう」

安田の嘆きは、モーツァルトの「レクイエム ニ短調」の悲しげなメロディによって、かき消されていった。


その頃、舞子はカフェの一番奥の席で、安田との情事の際に撮ったツーショット写真を見ながら、意味深な笑みを浮かべていた。。。。








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