ショートストーリー620 | 丸次郎 「ショート・ストーリー」
愛は、時に世を動かすほどの力を生み出すこともある。

男と女が織り成す愛の形は様々だが、男女の愛が一つになって固く結びついた時、その愛は二人の想像を遥かに越えたエネルギーとなり、有形無形の事象を生み出してゆく。


今から30年前。。。
香奈子は良家の次女として生を享けた。周囲が羨むほどの美貌と知性を兼ね備えた香奈子は、名門私立の小中高一貫学校を卒業すると、やがて東優大学医学部に入り、看護の勉強に励んだ。


家族や友人らは、優秀な香奈子に、女医か医学部教授を目指すべきだと進言したが、香奈子は頑なに拒み、看護のスペシャリストになる道を選んだのであった。


香奈子なりに充実したキャンパスライフを送っていた、大学3年の夏。

香奈子は、後に自分の人生を変えることになる一人の男と出会った。男の名は研一といい、プロカメラマンの助手をしながら、夜は国道沿いのラーメン屋でアルバイトをしていた。

ジーパンにTシャツにスニーカー。。。それが研一の定番ファッションだった。
夜10時を過ぎると、タクシーの運転手や、トラック運転手が訪れ、明け方近くになると近くの盛り場で仕事を終えたホステスが、疲れた顔でラーメンを食べに来た。。。真夜中のラーメン屋の客たちは、皆、それぞれに厳しい日常と向き合いながら、僅かな安らぎを一杯の温かなラーメンに求めているように、研一には思えた。


ある夜、客が引けた店内に、疲れ果てた表情の女が一人、暖簾をくぐり入ってきた。その日の午後、初恋の先輩と別れたばかりの香奈子であった。

「いらっしゃいませ。...」

研一は、寸胴鍋に入った鶏がらスープを柄杓で混ぜながら、そう声をかけた。

香奈子は、カウンター席の中ほどに座ると、溜め息をついてメニューを見つめた。店内にはAMラジオの深夜放送が、静かに「ラブ・ミー・テンダー」を流していた。。。


店のすぐ隣を通っている国道は、時間の経過と共に交通量も減ってゆき、夜の闇をいっそう濃くしていた。

研一は、水とおしぼりを香奈子の前に置くと、優しげに言った。

「お薦めは、左側に書いてある醤油ラーメンです。」

すると香奈子は、クスクスと声を抑えながら笑い始めた。

研一は、予期せぬ香奈子のリアクションを見て、妙に嬉しい気持ちになった。


「それじゃ、醤油ラーメン...ください」

香奈子は肩まで伸びた髪を、手で後ろに流しながら笑顔でそう言った。


このラーメン屋のメニューは、醤油ラーメンと、ライスの大・小サイズしかなかった。だから研一の言葉が、香奈子には可笑しく感じられたのだった。


「あぁ良かった。..じゃぁ、ライスください、って言われなくて」

研一は、照れ笑いを浮かべながらそう言い、麺を茹で始めた。


その言葉に香奈子は再び微笑むと、冷水の入ったガラスコップを両手で持ち、口に含んだ。

その夜、なぜか香奈子のあとに一人も来客はなかった。ラーメン屋の店主は、午前2時になると研一に店を任せ、早帰りしてしまった。

研一と香奈子だけになった店内は、静かな時間が流れていた。初めて顔を合わせた二人なのに、お互いに嫌な感じがしなかった。

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口数の少ない者同士でありながら、なぜかリラックスしていた。

スープまで飲み干した香奈子は、頬を赤くしながら言った。

「とても美味しかったです。ご馳走さま。...また、食べに来てもいいですか?」


研一は、香奈子に礼を言うと、厨房内に置いてあった自分のバッグから数枚のカラー写真を取り出し、香奈子に差し出した。


「これ..私が撮った星空の写真です。宜しかったら差し上げます。」


青白く輝く宝石のようなプレアデス星団や、淡い光を放っているアンドロメダ星雲。その他、何万光年も離れた星団の美しい写真が香奈子の目を釘づけにした。


「凄い。。。プロが撮ったみたい」

香奈子は感動し、瞳を輝かせてそう言った。


研一は、そんな香奈子の安らいだ表情を見つめ、笑みを浮かべた。


「この街にいると、星を見ることさえ忘れてしまう。星を見る余裕さえないと、人の心も見えなくなってしまう。...だから時々、この街から離れて星空に会いにゆくんです。。。」

研一は、そう言うと少しだけ哀しげな目をした。


その後、香奈子は毎週のように研一のラーメン屋に顔を出すようになった。そして、いつしか香奈子にとって、研一は気が置けない貴重な存在になっていた。


翌年の冬。。。

青空の下、研一と香奈子は、一面パウダースノーのゲレンデにシュプールを描きながら、並んで滑っていた。


純白の傾斜を下降してゆく研一と香奈子の距離は、離れては近づき、近づいては離れ、また近づく。。。

それは、まるで二人が心地よい関係を保ちながら、共に支え合って生きてゆく姿そのものであった。。。。



この時、香奈子は心に固く決めていた。

親族や周囲から、どんなに猛反対されても、研一と共に生きてゆくことを。。。。









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