ショートストーリー599 | 丸次郎 「ショート・ストーリー」
心というのは湖面のように常に動いていて、微動だにせず静まり返るのは稀である。

己の心の変化に気づきもせず、感情的な言葉を発し、自分を卑しめてしまうこともある。だが、それも人間らしさというもの。


そんな感情的な言動を、寛容な心で受け入れる事が出来たならば、それも一つの「愛」と呼べるものなのかもしれない。

キミは、ポツリと呟くように言った。

「聖人君子なんて、実はどこにもいない...」と。..そう思うまでに長い年月が、かかったと。..

しかし厳密に言えば、いないのではなく、出会っていない..或いは、まだ見つからないだけなのだ。


「自分」という名の都合の良いフィルターを通して相手を見ると、そこには少なからず、不平不満が映るものだ。

自分というエゴを捨て去ることが出来た時、多くの人々が実に素敵な人格の持ち主であったことに気がつくであろう。。。


そう。...あの人も、この人も皆、心美しく綺麗であったと。。。


ユキコの未来も、カズトシの未来も、本当は薔薇色で明るくハッピーな未来なのだ。なのに当人たちは、冴えない表情で日々を過ごし、時に夕陽の影で絶望に暮れている。

$丸次郎「ショートストーリー」

目を覚ましたばかりの小犬は、たった今、夢で見ていた楽しい世界に微笑んでいる。しかし、その飼い主であるユキコとカズトシは、電卓を睨みながら言い争っている。


壁の振り子時計が、人に代わって今日という一日に感謝の鐘を鳴らし始めた。

「さっ、もうそろそろ、夕食の仕度を始めなきゃ...あなた、大根の皮むき、手伝って」

そう言って家計簿を閉じたユキコは、強制的に気分を切り替え、ダイニングテーブルから離れると、キッチンへ向った。

「お前って、いつもそう。...最後まで話し合うことを避ける。..嫌な事から逃げるように」

カズトシが、すねた口調でそう言った。でも、カズトシだって、切実な話なんて、したくはない。むしろ、現実から逃げたがっているのは、ユキコではなくカズトシのほうなのだ。


でも、くだらないプライドが、そんな本音を隠し通そうとしている。男が女の前で見せる態度の7割は、いつ捨ててもいいようなチープなプライドの具現化にすぎない。


「ユキコ、大好きだ...」

そんな言葉を、気恥ずかしくなるような言葉を、あえてもっともっと吐くべきだと、最近のカズトシは思う。


愛を多く口にすることは、ともすれば幼さのようにも感じられる。しかし苦笑しても、鬱陶しく思えても心の奥に、ほんの僅かでも熱いものが湧き上がるのは確かだ。


「あの時、彼女に愛を、もっと伝えておくべきだった。...」

そんな後悔を残して、愛を胸の奥に封印したまま、旅立つのは哀しすぎる。カズトシは、強くそう思うようになった。


「ねぇ...昨日、買ってきた手羽先、トマトピューレと一緒に煮込もうと思うの。...少し辛くしたほうが美味しくない?」


ご機嫌ななめだと思っていたユキコが、笑みを浮かべて振り返り、そう言った。


そんなユキコの瞳が、永遠を物語っていた。今というこの時が、実は永遠の未来へと繋がっていることを、彼女の瞳がカズトシに伝えていた。。。


「いいね!...うん、辛くして。...最後にスライスチーズを被せればOK!」

そんなカズトシの応えに、ユキコは黙ったまま、指でOKサインを送った。


当たり前の日常は、決して当たり前ではない尊い日常なのだと、「今」という時の輝きを感じながら、カズトシは思った。


そして鍋から立ち昇る湯気の向こうで、アボカドの皮をむいているユキコの後ろ姿に、カズトシは目を細めたのであった。。。。









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