ガッチャのオメガに関するHODINKEEの記事によると、オークションハウスのフィリップスは、出品された全ての時計について、ひとつひとつのパーツが本物であること(=時計とその全ての部品が、時計が製造された時点で作られていること)を保証するそうです。これはどういう意味に理解すれば良いのだろう?時計を構成する全てのパーツに当時モノのメーカー純正品が使われている=フィリップスが考えるところのオリジナル、という意味ですかね。だとすると…です。オリジナルと呼べるためには必ずしも全てのパーツが工場出荷時の状態のまま交換されていないことまで要求されるものではない、別の言い方をすると、当時モノのメーカー純正品を使って修理された個体はなおオリジナルと呼んで差し支えない、ということになります。それならガッチャはどうなの?上の定義に当てはめるなら、当時モノのメーカー純正品を掻き集めてきて組み上げたガッチャもまたオリジナルと呼べるのでなければおかしいということになります。でもこれをオリジナルと認める人は恐らく皆無でしょう。それは何故か?時計としての機能を取り戻すためのパーツ交換を可とし、美観を整える(またはゾンビを蘇らせる)ためのパーツ交換を不可として両者の扱いに差を設けるべきというのであれば、その違いは一体どこからくるのか?個々のパーツ単位で見比べても、その集合体である時計として見比べても客観的な違いはない、少なくとも見分けはつかない、とするなら両者に違いを生じさせているのは、それを見る者の主観、つまり私たちの心にのみあるということにはならないか。
実はこれ、意外と当たっているのではないかと思うのです。ヒントは昨日の記事に対してお仲間のちんねんさんからいただいたコメントにありました。オリジナルとガッチャ(非オリジナル)との対比で考えたから分かりにくかったけど、そうではなく、自分にとって価値ある時計とは何か、そういう視点から考えたら、フィリップスにとってはオリジナルか否かは重要でも、私にとってはそうではないということになります。何故ならオリジナルとガッチャは私にとって全く見分けがつかず、いってみれば同じものだから。しかしフィリップスにとっては違う。口が裂けても同じものだなんていうわけにはいかない。何故ならそれを認めた途端、彼らの商売は成り立たなくなってしまうから。だからたとえ見分けがつかなくても、本心では分かんねえなあと思っていても、その眼を使ってオリジナルを見つけ出す、オリジナルという価値を創造していく必要が彼らにはあるのです。因みにいっておくと、自分には見分けがつかないというだけで、オリジナルとガッチャの価値の優劣は実はあると私も思っています。だからそこに価値の基準を置き、フィリップスの眼を信用して対価を払う人のことを私は否定しません。要は人それぞれ、他人に振り回されず、自分の価値を追求すれば良い。
今日は思いのほか長くなってしまいました。最後に、今回オメガが落札したガッチャのオメガについてどう思うか。私はとても面白いと思います。もしオメガが要らないなら私が欲しい。人間の欲が生み出したフランケンシュタイン・ウォッチ。正真正銘のオリジナルより、私にはこっちの方がよほど魅力的に思えるのです。