うちのカイシャは土曜日も午前中は開けることにしているのだけど、今日は来客予定もないことだし、在宅勤務というかテレワークというか臨時休業というか、まぁとにかく出社は見合わせることにしました。オミクロンの威力が凄まじく、自分もいつ感染してもおかしくないというリスクを肌で感じるようになったので。感染した場合に周りにかける迷惑を考えると、やはり自分の行動には気をつけないとと思いますよね。来週からはここ兵庫県でもまん防が適用される見込みだし、今後はカイシャの営業形態についても少し考えないといけないかもしれません。


で、肝心の(?)時計について、昨日の記事は恐らく読まされた方にとっては「一体なんのこっちゃ?」という内容だろうけど、書いた本人にとっては画期的で、自分はこれまでビックリするくらい視野が狭く、独善的で嫌な奴だったのだなと、今更ながら反省しています。


具体的にどういうことかというと、時計を見るという行為、これの意味が私には何も分かっていなかった。鑑賞用の時計と言い換えても良い。時間を見るための道具である時計で時間を見ずに時計を見る、私にはその意味が分からなかったし、これまでの私はどんな時計をつけても結局は時間しか見ていなかったのだと思います。だから私は時計には精度を求めたし、使い切れないほど手持ちの数が増えることを嫌ったし、使わない時計を所有することの意味が分からなかったし、それ故に使わないと分かっていてポルセを手に入れた自分に戸惑ったのです。


でも今は分かる。人々は時計を見て、時間ではなくその向こうにある何か別のものを見ていたのだと。それは子どもの頃の幸せな光景だったり、過ぎ去った自分の人生だったり、大切な人との思い出だったり、夢やロマンだったり。そうかそうか、そうだったのか。だとしたら上がりの時計を人生最後に買う時計と定義づけ、精一杯の背伸びをして高級時計を選ぶ気持ちも理解できる。人はそこに若い頃からの夢やこれまで頑張ってきた自分の姿を重ねるわけか。うむ、なかなかに素敵な話ではないか。


写真はAAAと黒のポルセです。私にとっては前者が使う用で後者は見る用(息子にとっては両方とも使う用)。多分うちの嫁さんにはそんな話をしても通じないし、そもそも彼女にはこの2つは同じ時計にしか見えないでしょうけどもね ^^;