大淀川左岸の宮崎市池内町と上北方にまたがる、標高93mの丘陵上にある山城です。
宮崎駅からは約7km
地図でみると差程は無かったのだが、走らせてみると遠かった。(地方アルアル)
南北朝時代のはじめ、建武2 (1335) 年12月、足利尊氏が反旗を翻したため、後醍醐天皇は尊氏を討つよう命じます。
これに応じて宮崎荘(現在の宮崎市上北方・下北方町・池内町・南方町付近)で挙兵したのが、同荘の荘官(荘園の現地管理人)一坪六郎入道慈円で、立て籠もった「宮崎池内城」が宮崎城のはじまりとされています。
一坪慈円は大塚の土持宣栄に攻め滅ぼされ、室町時代に入ると都於郡城(西都市)を本拠とする伊東氏の支城、伊東48城の1つとなる。
天正5 (1577) 年に伊東義祐を追放し、島津義久が日向国を支配するようになり、重臣の上井覚兼を宮崎城主に任命します。
天正15年(1587)5月、島津義久が豊臣秀吉に降服すると、宮崎城周辺は県領主(現在の延岡市)となった高橋元種領となります。
一国一城令によりこの城も廃城になり、高橋家の支配の拠点は下北方の代官所に移っていきました。
追分から右へ登った『服部城』の虎口
小石を積んである
350年と400年記念碑、中央は古く判読不能
後方の土壇の向こうには深い横堀。さらに郭も続く。
反対側にも郭が続く
追分けに戻り、『目曳城』へ
草原で眺望なし。鉄塔が立つ。
向こう側へも道はあるが倒木などで通れなかった。
下城する。
こちらの尾根も城域だったと思われる
ここからも登城道があったのであろう。
2024.6.2(日) 登城