『川越城』から南へ下ってくると『成田山川越別院』
正式名を『本行院(ほんぎょういん)』
江戸時代も末の1853年、ペリーが黒船を率いて浦賀に来航した年に、下総の国新宿(現 葛飾区)の石川照温が、廃寺となっていた本行院を成田山新勝寺の別院として再興したのが始まりといわれている。
密教仏具の『大五鈷杵(ごこじょ)』
大師堂のまわりには四国八十八ヶ所のお砂踏みが出来ます。
川越七福神の恵比須天を祀るお堂があります。
水掛地蔵と亀池
本堂より境内を見る。(本堂の写真なし)
南隣の『喜多院』
山門は大火を免れ、現存する最古の建物
喜多院の本堂『慈恵堂(じえどう)』
正月のだるま市や春の桜まつりなどで多くの人を集める、開放的な雰囲気の境内ですが、そこは川越が誇る文化財の宝庫です。
住職であった天海上人が家康と関係があったため、徳川家とゆかりの深いお寺で、江戸城から移築された”家光誕生の間”や”春日の局化粧の間”が一般公開されています。(コロナ休館)
境内で人目を引く『多宝塔(たほうとう)』
古墳を利用した小高い場所には『慈眼堂』
天海僧正は寛永20年(1643)に亡くなり、翌々年に徳川家光公の命によりこの慈眼堂が建てられました。
厨子には天海僧正の木像が安置されています。
喜多院は天台宗の寺院で、慈覚大師が830年(天長7)に創建したと言い伝えられています。
喜多院27世住職を務めた天海大僧正
川越のまちづくりにも尽力したと言われている天海僧正は、徳川家康より絶大な信頼を得ていました。
明智光秀と天海僧正が同一人物であるという説も有名。
『鐘楼門(しょうろうもん)』
鮮やかな朱塗りの2階建、寛永10年(1633)の建造と伝えられています。
彫物の正面は「竜」、背面は「鷹」で色鮮やかな極彩色仕上。
2020.5.27(金)