小川城:群馬県みなかみ町 | 投資 播種 目を出せ! 植木屋のブログ

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名胡桃城の北3.4㎞に位置し、上越新幹線「上毛高原駅」の東、国道291号線に沿いに「小川城跡」の碑があり、駐車スペース。

国道に平行して深い空堀があり、その先に本丸跡がある。

 

虎口の右に高い土塁があり、祠が祀られ、「本丸址」の看板。

 

土塁が残り、東に「小川城址」の石碑が建てられている。

 

東に一段下がって腰郭がある。

 

土塁には石を積んだ部分もある。

 

また国道の西の畑に「二の丸址」の看板が建てられ、二の丸壕跡が残っている。

室町時代、奥利根、裏日本を押える戦略上の拠点として、北上州の雄 沼田荘田城主沼田景久が西の備えとして明応元年(1492)に築城した。

沼田景久は次男次郎景秋を住まわせ、北毛経営を固めた。

その後、文亀二年(1502)二代城主小川三郎景祐は狼藉で追放され、弟秀泰が三代城主となった。

小川秀泰は勇将にして岡林斉と称し信望を集め沼田七騎の一人として名を馳せた。

大永二年(1522)秀泰が死去し、子彦四郎景奥の代となり、後北条氏の勢力が北関東の奥まった利根の地に伸び、度重なる小競り合いの中、景奥の長子景季は若くして焼死。

大永四年(1524)の戦闘で、城は焼かれ景奥は落命。

 

そのころ上方より北面の武士(京都御所警備)であった赤松則村の裔である赤松捨五郎祐正が浪人となりこの地の客分として城内に留まり、上杉謙信の裁可を得て名跡となり小川可遊斉と名乗った。

天正八年(1580)小川可遊斉は小田原の北条勢並びに沼田勢と再度菩提木の合戦を行い、可遊斉の戦略を用い勝利した。

北条氏邦は激怒し、同年十月数倍の兵力で小川城を攻めた。小川可遊斉以下将兵は激闘の末、城は焼かれ多数の戦死者を出し、越後へ敗走した。

 

小川城には小川氏門葉の一人北能登守が城代として居り、真田昌幸の配下として天正二十年(1592)頃まで在城した。

その後何年か城代不明の時期を経て沼田真田氏の五代城主となった幼名兵吉は、寛永十五年(1638)より18年間真田伊賀守信澄となり、五代沼田城主を継ぐまで三の丸の陣屋に居住。

その後廃城となり、永い年月草木に埋もれていた。

 

2019.7.28(日)登城