堀江城は、遊園地パルパル周辺と言われています。
観覧車付近が本曲輪
本曲輪の切岸だろうか
浜名湖の東岸に位置する堀江城(ほりえじょう)は、貞治年間(1362年~1368年)に大沢基久が築城したと伝わります。
丹波国大沢村から藤原基秀が堀江に下向し、その子が大沢姓を称したようです。
大澤氏は、遠江守護の斯波氏に従っていましたが、駿河の今川氏が勢力伸ばしてくると、今川家に従いました。
永禄12年(1569年)の堀江城主は大沢基胤(おおさわ-もとたね)は徳川家康に攻められます。
3月12日に、大沢氏の属城だった堀川城が徳川勢の攻撃で陥落しますが、3月25日には井伊谷三人衆に攻められるも堀江城を守りぬきます。
この頃、駿府には武田信玄の大軍が入り、早く東へと侵攻したい徳川家康は本領安堵を約束し、大澤基胤は降伏。
以後、大沢基胤は徳川勢として、「小牧・長久手の戦い」どにも参戦し、勝頼との「長篠の戦い」では、酒井忠次に従って参じました。
江戸時代入ると、大沢基胤は堀江城(佐田城)からほど近いところに堀江陣屋(ほりえじんや)を築いています。
旅館「堀江の庄」の辺りが「堀江陣屋跡」
大沢基胤の子・大沢基宿(おおさわ-もといえ)は駿河・田中城攻めでも武功をあげ、関ヶ原の戦いのあと1550石の旗本となります。
そして、1603年2月12日には徳川家康が将軍宣下を受けるにあたり、大沢基宿が式典のことを公家・二条康道と相談しています。
1603年からは高家筆頭となり、幕末までこの堀江にて大沢家は続き、徳川家臣の中で、領地が変わっていない珍しい武家です。
最終的に3550石まで加増された大沢家ですが、現在の堀江城跡は舘山寺温泉(かんざんじおんせん)となっており、ホテル九重や遊園地の敷地などのため、堀江城の遺構は残っていません。
2018年11月28日(水)登城