1559年(永禄2)筒井順慶を破った松永久秀が大和攻略の拠点として4階櫓をもつ近世城郭の発祥とも言われる城を築いた。
標高115mのこの山は、かつて眉間寺山と称したが、
久秀はこれを多門山と改称し、城を多門城と称した。
信仰する信貴山の多聞天(毘沙門天)にちなむという。
現在は市立若草中学校となっており、遺構は残っておらず、地形から想像するのみ。
石段の脇には出土した無念仏などの石柱が安置したあった。
校舎とグランドを遮る谷は大堀切と言われる
三好三人衆と松永秀久(三好家臣)との戦で、焼失した東大寺も目と鼻の先。
畿内を中心に、最大勢力を持っていた三好家も、
三好長慶(ながよし)死後の3年の内紛で勢力が衰え、後には信長に蹴散らされ三好政権は崩壊する。
麓の若草公民館には多聞城の資料も展示されている。
多くの城址に築かれている「多門櫓(たもんやぐら)」はこの城が元祖。
信長の安土城のモデルともいわれる先進思想の城だったようです。
2018年3月15日登城