怒ったり、不満を抱くのは自分の思い通りにならないからです。
もっと言うと「こうあるべきだ」「こうでなくてはならない」のような強い思い込みがあるからです。
例えば私達の生きる社会では規則、決まりごとがあります。
当然、これらは守るべきものですが規則を破り、決まりごとを守らない人もいます。
そんな人に対して「こうあるべきだ」「こうでなくてはならない」という思いがわき上がることがないでしょうか?
同時に強い感情により心が動いていないでしょうか?
僅かでもあるならが「こうあるべきだ」「こうでなくてはならない」がある証拠です。
「こうあるべきだ」「こうでなくてはならない」は自分という立場から発せられています。
というより自分という立場しかなく、相手や他者の立場などありません。
これこそ傲慢であり、自惚れであり、我善しではないでしょうか。
世界が体験を与え、体験が人をつくるため、現在を生きる多くの人がこのような前提で生きてしまうのは仕方のないことです。
仕方のないことですがそれに気づき、正すことが出来るのも人間です。
己を、世界を正すことが出来るのは人間だけ故に現在を生きる人達がやらなければならないんです。
我善し人間が増えればどうなるかの答えは今皆さんが見ている世界に現れてます。
これが終末とか末法の世と呼ばれるもので、日月神示では我善しの世と言われています。
世界を1人の人間の身体として考えてみて下さい。
身体の中は問題だらけではないでしょうか?
身体は悲鳴を上げ、苦しんでいないでしょうか?
それが皆さんの身体だとしたらどうしますか?
世界のことも自分事のように感じられると世界のために動くことが出来るようになります。
自分のため、世界のためという区別がないから自分のためが世界のためになり、
また世界のためが自分のためになるからです。
誰もが最初は自分のために行為します。
ですが自分という範囲を広げていけばやがて世界のため、一切のためとなり「~ため」が意味をなさなくなります。
「~ため」が消え去ると一切の立場となり、同時に我善しも消え去るんです。
自分という我は小我と言われ世界から見ると非常に小さなものです。
自分という我を大きくし、大きな我善しにするんです。
大きな我善しにし、大欲になるんです。
以下は日月神示の一文です。
日月神示
【青葉の巻 10帖】
善き⦿(かみ)には善き御用、悪き⦿には悪き御用、自分で自分がつとめ上げるのぢゃ、人になんと言われても腹の立つようでは御用難しいぞ、腹の立つのは慢心からぢゃと申してあろうがな。
仕組途中でグレンと変わり、カラリと変わる仕組してあるのぢゃ、そこに一厘の仕組、火水(かみ)の仕組、富士と鳴門の仕組、結構々々大切致してあるのぢゃ。
仕組変わり変わりて人民にはわからんなり、善き世と致すのぢゃ、いくら智あっても人間心では出来ん仕組ぞ、智捨てて⦿にすがりて来ねばわからん仕組ぢゃ、と言うて人間世界は人間の智いるのぢゃ、智でない智を⦿が与えるぞ、⦿人共にと申してあろうがな、つとめ上げたら他にない結構な御用。
【月光の巻 14帖】
流れ出たものはまた元に還ると申しても、そのままでは還られんのであるぞ。
天から降った雨がまた天に昇るには、形を変えるであろうが、この道理をわきまえんと、悪かみかかりとなるぞ。
それはそなたの自己欲から出ているぞ。
自己欲もなくてはならんが、だんだん浄化して行かねばならん。
浄化して大き自己の欲とせよ。
自分のみの欲となるから弥栄えんのぢゃ。
弥栄えんもの神の御心に逆行。