人間は一人一人多種多様な考え、価値観を持っており、誰一人として同じ人はいません。
そのため人が多く集まるほど意見がまとまらず、対立が起こりやすくなると言われます。
現実に遥か昔より人種、宗教、文化などが違うだけで多くの争いが起こり続けており終わる気配はありません。
しかし人は皆、共通の意識を持っていると言われます。
皆さんは幸福と不幸なら幸福を選ぶでしょう。
平和と争いなら平和を選ぶでしょう。
安心と不安なら安心を選ぶでしょう。
健康と病なら健康を選ぶでしょう。
喜びと悲しみなら喜びを選ぶでしょう。
清潔と不潔なら清潔を選ぶでしょう。
調和と混沌なら調和を選ぶでしょう。
多種多様な考え方、価値観を持っているのに実は同じことを望んでいるんです。
同じことを望んでいるのになぜ人類から争いがなくならないのでしょうか?
達成するための方法が違うからです。
平和を実現する方法一つをとってみても意見は様々です。
武器をなくすことが必要だという一方、強力な軍事力を持つことが大事だという意見もあります。
他にも経済力、資源やエネルギー、食料自給率、同盟国の数、敵対勢力や脅威の排除だったりと様々です。
気づくべきは望んでいることは同じなのに、方法だけで対立しているということです。
たったそれだけのことですが、場合によっては戦争になることもあるんです。
このバカげた話が、この世界の現実です。
なぜこれだけ違う方法が生まれ、対立するのか?
それは方法がつくられた過程を見るとわかってきます。
もっと言うと、その方法がどのような立場から見てつくられたか、に注目することです。
対立するような方法は自分、自国など己の立場、個の立場だけを見てつくられたものです。
つまりここで何度も書いてきた我善しの立場です。
人間は一人で生まれてきて、一人で成長しているわけではありません。
多くのものと影響を与え合いながら存在しています。
故に全体から影響を受けない個はなく、全体に影響を与えない個も存在しないんです。
このことから個は全体であり、全体は個であると言えます。
これは神の確固たる法であるため、神でもそれを曲げることは出来ません。
我善しとは単に調和を乱すことだけでなく、神に逆らうということです。
師匠の『一切が私』という教えは一切の立場で考えることで、調和を現しています。
調和ゆえに対立など起こりようがないんです。
また一切の立場に立って考える行為は神の行為となります。
弥勒菩薩の像は考えている姿をしていますが、どうすれば全ての人が救われるかを考えている姿だと言われています。
より多くの人達が『一切が私』という生き方が出来るほど神の国へと近づいていくんです。
神の国、天国、理想郷など様々な呼ばれかたがあり、日月神示では『弥勒の世』と言われています。
以下は日月神示の一文です。
日月神示
【富士の巻 8帖】
山は神ぞ、川は神ぞ、海も神ぞ、雨も神、風も神ぞ、天地みな神ぞ、草木も神ぞ、神祀れと申すのは神にまつろうことと申してあろうが、神々まつり合わすことぞ、皆何もかもまつりあった姿が神の姿、⦿の心ぞ。
皆まつれば何も足らんことないぞ、余ることないぞ、これが神国の姿ぞ、物足らぬと臣民泣いているが、足らぬのではないぞ、足らぬと思うているが、余っているではないか、上(かみ)の役人どの、まず⦿祀れ、⦿祀りて⦿心となりて⦿の政治せよ、戦などは何でもなくケリつくぞ。
【黄金の巻 2帖】
神は生命ぞ。
秩序ぞ。
秩序は法則ぞ。
為せよ。
行ぜよ。
考えよ。
考えたらよいのぢゃ。
為すにはまず求めよ。
神に求めよ。
己に求めよ。
求めて、理解した後為せ。
為して顧みよ。
神のいのち其処(そこ)に弥栄えるぞ。
【黄金の巻 87帖】
まことに改心出来たと、神が見届けたら、今度はこの世はもとより、何の心配もないように護って、肉体、顔まで変えてやるぞ。
宿命と運命は同じでない。
磨けばどんなにでも光るぞ。
放っておいても神に背くものは自滅して行き、従うものは弥栄えて行くぞ。
其処(そこ)に神の能、よく悟りて下されよ。
人間の処理方法と神の処理方法と融和せねばならん。
急がねばならず、急いでは谷底に落ちて出来損なうぞ。
ありとあるもの、何んでも彼んでも天地の御用持っているのぞ。
そのものの勝手な道は許さんぞ。
大き喜びの中に、小さい自分の喜び大きく栄えるぞ。
大きな生命の中にこそ小さい自分のマコトの喜びが弥栄えるのであるぞ。
わかりたか。