この半年のあいだ、息子は寝返り・ズリバイ・ハイハイ・つかまり立ち・伝い歩きと、日々成長しています。

 

先週できなかったことが、今週にはできるようになる。

喜怒哀楽を全身で表現し、あらゆるものに興味をもつ。

泣きながら何かを訴え、笑顔で何かを訴える。

愛をいっぱい受け取りたいと、全力で突進する。

 

子育ては、毎日が発見の連続で、計画通りにいかないことの連続で、自分自身の忍耐が試され、自分自身の価値観や反応に気づき再編していく作業の連続だなと思います。

 

 

子育てには「肯定」が必要だというけれど、実際にどれだけできているか?

〈あれしたらダメ。泣かないで。こう言ったでしょ。〉

私も親から言われたフレーズであり、友人が子どもに言っている場面にも、よく出くわす。

 

ダメとは言いたくないが、なんでもアリは違う。

これって線引きが難しい。

 

 

条件付きではなく無条件に愛すること。まるまる肯定すること。

具体的にどういうことなんだろう?果たして私は肯定できているのかな?

 

毎日息子といると、私自身の親としてのあり方やそれ以前として人としてのあり方を考えることが増えました。

 

 

 

子育ては、自分の心と向き合うことだと感じます。まさに親になる。親が育つ。

 

毎日の暮らしの中のたった数分間。それが自分の計画通りにいかず、心のざわつきや余裕を失っていく自分自身を俯瞰してみると、なんだか笑ってしまうくらい 「こだわってる」 なあと感じています。 

 

出産前は、段取りをして計画的に事をすすめるのが当たり前だったし、それが得意なことだと感じていました。

出産後、「私は計画通りに事が進まないとストレスを感じてしまうんだ。」ということに気づかされました。

どちらかといえば「柔軟に対応できるタイプ」という自己分析があったのですが、子育てをしてみて「あ、私のこだわりってやっかいだ。」と感じることのほうが多く、新たな発見というか未知との遭遇というか、「自分のことが一番理解不能」というような情緒の不安定さに驚く日々です。

 

なによりも息子はやっぱり愛おしく、振り回されるという感覚はないのですが、計画通りに事が進まない日常のフラストレーションは、情緒の不安定さや夫への訴えかけとして可視化されていきます。

 

これが、もっと自分で自分を俯瞰して見ながら「今、ストレスポイント発生した」みたいに認識し、夫へ言葉でわかりやすく伝えることができれば夫婦はこじれないのでしょうが、そんなことできるはずもなく、「寝たい」「家事おわらせたい(やりたくない)」「寝たい」「ゆっくりしたい」のように願望の蓄積が不満へ変化していきます。

 

そして、やっかいなのが

〈これが子育てというやつだ、女性はみんなやっている、パパは働いている、〉 というような自分への言い聞かせが、さらに自分を苦しめて、余計なエネルギーを消耗させていくのだと感じました。

 

 

 

「わたしはわたし」

 

この概念を、子どもにも教えるためにも、やっかいな自分への言い聞かせをやめてみることからはじめてみると、少しずつ自分の情緒に対して俯瞰できるようになってきたと思います。

 

「あ、いま気分がよくないな。」

「あ、今いっぱいいっぱいになりつつあるな。」

「あ、息子の大泣きに疲れてきたな。」

「あ、なんだか夫にあたってしまいそうだな。」

 

など、いわゆるネガティブな情緒に気づくことができるようになってきて、元の自分の感覚を少しずつ取り戻しているように感じます。

ネガティブだからどうってことはなく、「今のわたし」をそのまま感じることが大事で、そこからポジティブに変換しようなどということは特に考えていません。

 

まずは、それでいいんだと。

自分の感情に気づくことが大事なんだと。

 

 

これは、子育てにも使いたいなと思っていて、息子がどんな感情を持っているか?何を訴えようとしているか?を大事にしたい。

全部まるまる認めてあげたい。

 

息子のネガティブも、ありのまま、そのままで包める親でありたい。

 

これが肯定するということなのかな?

自分の情緒を俯瞰してみつめてみたら、このような結論が出ました。